2011年1月31日月曜日

『ある小さなスズメの記録』 by クレア・キップス


鳥博士とでも言おうか、鳥を追いかけて世界中を旅している私のスペイン語のクラスメイト、Sさんにお借りした本。

サブタイトルが『人を慰め、愛し、叱った、 誇り高きクラレンスの生涯』 Sold for a farthing


梨木香歩さんの訳 出版社:文芸春秋



1953年にイギリスで出版され、大ベストセラーになったノンフィクション。第二次大戦下のロンドンで、瀕死の状態にある野生の生まれたばかりの小雀を拾った老婦人が、あふれんばかりの愛情で育てあげ、共に暮らし、最期をみとるまでの実話。

調度ブレニンを読んだ後だったので、ブレニンがスズメになったような奇妙な気がした。

このように、相手がオオカミであれ、スズメであれ、人間同士に負けないくらい親密に心を通わす実話を読んでいると、人間同士のコミュニケイションも、これに負けないくらいの努力と忍耐と愛情が必要なのだなあ~とつくづく思うのだ。

このクラレンスは、その時その時の状況や環境を全て受け入れて、工夫し、最大限にそこを楽しいものとする術を知っている。彼は羽に障害をもっているからそこから出ても生きていけないのだ。それを知っていてか、外界に興味を示さない。その代わり自分の居る場所をbest place にする。
その状態が母の今に重なり、彼のように母も思ってくれたら・・・と思うのだ。

やはりスペイン語のクラスメイトのKさんが長年一緒に暮した犬のプーちゃんを亡くした直後だったので、彼女のためにSさんが持って来た本だった。
私もつい、お借りしてしまった。
明日、ブレニンの本を彼女たちに持って行こう!

この本を読みながら、小さな小さなスズメに教えられた色々なこと、先週から歩けなくなった母とも重なって、色々考えさせられた。人間を優しい気持ちで見取るのは、人生にとって最も大きな仕事のひとつなのかもしれない。

2011年1月27日木曜日

弱音を吐こう介護日誌③ 認知症なの? ~初めてのショートステイ、まるで幼稚園の初めてのお泊り会

オババの膝にみずが溜まったので、ここのところ長野通いをしている。
家を出てオババの家に到着するまでに、なんやかんや3時間半くらいかかるから、往復していると結構な時間がなくなる。
おまけに、行っている間働きっぱなしだから・・・

ところで、病院へ行った結果は前述通り膝にみずがたまったためで、お決まりの整形外科の処方でみずを抜き、ヒアルロン酸注入の注射をしたようだ。
私の整骨院の先生はその処置に反対だ。しかしあれだけ高齢で急激な痛みをまず取り除くためには、仕方がないのだろう。
そして、入院はさせてくれなかったらしい。
こんなことでいちいち入院していたら、本当の病人の為にベッドが使えなくなってしまう、ということらしい。もっともなことだ。

それにしても、オババの足の痛みはさほど改善されたようには見えない。到着したときにやはり這っていた。イモムシよりは、赤ちゃんのはいはいに近い形になっていたので、幾分は改善されていたのだろうが、立った時に感じる痛みはまだまだ去らないようだ。

何だか忘れたが、あまり馬鹿なことを言ったので、私がいい加減にしなさい!的なことを少し強めに言ったら「ソラちゃんはもう帰ってもいいよ」とのたまった。「歩くこともできない、トイレもできないのに、そう、いいの?帰っても・・・。じゃあ帰るよ。ここに買ってきたお昼があるから食べて。」
「・・・・」
「お母さんは、もう少し素直になった方がいいよ。折角来てもこれでは、こちらの気持ちが萎えちゃうよ」少々きついがそう言った。

この日はヘルパーさんが来てくれる日なので、私はオババが言っているような怠け者のヘルパーさんなのかこの目で確認しようと思っていた。文句ばかり言って2回契約を断ってしまったので、今回は3度目になるため、本当にそんなにひどいのかお会いしてみた。なんのなんの、全然変じゃない。とても良いヘルパーさんだった。挙句の果てに「今日はいつもと違うヘルパーさんよ」と平気で嘘をつく。
多分普段大してお顔を見ないか、本当に顔が記憶に残らなくなっているのだろう。

ヘルパーさんも「さかんに物がなくなると言っています。この台詞は認知症の兆しです。まだ凶暴性が帯びてないので、良いですが、認知症ですね。逆らわずに反対したらり叱ったりせずに適当に付き合ってあげた方がいいですね」と言っておられた。
私はいつも、「そんな馬鹿なことあるはずないじゃん!」とか「お母さんの勘違いよ!」と相手にしないが、まだ正常さを残していると思っているから、本当の反応で答えている。否定してはいけないというと、全くあべこべのことをしていることになるけれど、本当に認知症と認めてしまったほうが良いのだらろうか? それとも、自分なりに少しでも正常に戻すために神経を逆なでしたほうが良いのか?よくわからない。まだ100%認知症を受け入れてはいない。だってあのオババしたたかなのだから。

ヘルパーさんのお薦めで、ケアマネの柳澤さんに相談した。
彼女はオババの様子を見て、適切な提案をしてくださった。そして、「ショートステイは如何ですか?」といわれた時に、調度私も考えていたことだったので、あたってもらった。「普通3ヶ月待ちです」と言うので、「足の痛い間、歩けない間だけでもどうにかなりませんか?」ということで、調べていただいたら、本当に運よく1週間だけだけれど、入れるというところが見つかった。
彼女は波乱に富んだ人生を歩いているのだけれど、本来運がいい!
そうすれば、寒い思いをせずにお風呂にも入れていただけるし、電子レンジを使うだけでも立ち上がるのに難儀している一番の3食が温かいお食事で提供されるのだから、この状況下ではこれほどありがたいことはない。
「多分帰ってくる頃には足が大分楽になると思うよ」こうして、珍しくオババは承諾した。

すごい勢いでお泊り会の準備をした。
何しろオムツのかさばりが半端ではない!そして玄関に荷物を並べて翌日のお迎えが来たら、絶対に行きたくないとごねるのが分かっていたので、その日の夜遅く「この荷物触っては駄目よ。お母さん並べておくとみんな元の場所に戻しちゃうんだから、絶対に動かさないで!」と言い残して東京へ戻った。

彼女がごねるのは分かっていたから、朝確認の電話もしなかった。
この『ゴネ』は半端じゃないのだ。父が亡くなった後、運動神経抜群の彼女にプールを勧めた時も1年ごね続け、やっとその気になった。そしていざ登録して、水泳教室を始めてから初めて水に入るまで、ゴネてゴネてゴネまくりどれくらいインストラクターを悩ませたことか・・・・そしていざ始めたら、高齢の初心者にもかかわらず一番うまくなってしまった。
そして20年以上続けたのだから。ゴネに負けてはならない。私が勧める事はオババにとって良いことしかないと自覚して欲しいものだ。

案の定、朝車に乗るときにゴネて、デイサービスの施設についてから又ゴネたらしい。
様子を聞くために施設に電話したら、「あの~、娘が家で待っていますから、帰りたいんですけれど~。」とゴネたらしい。「そのためだったら何でも言いますから、信じずに上手に聞き流してください。あれだけ足が痛いと、ちょっと生活が無理なので宜しくお願いします。1週間経てばかなり生活がし易くなると思います。」とお願いしておいた。スタッフの人も困っていらした。オババはしたたかなのだ。あの手この手を使ってくる。
その後ケアマネさんに電話して、「いざとなったら『2日まで頑張ればお兄ちゃんが家で迎えてくれるから』という餌でつってください」とお願いしておいた。彼女もオババのしたたかさと頑固さは嫌と言うほど体験しているので、私が伝えたいことは直ぐに理解してくださる。

施設のスタッフの女性が、「お昼を食べたら少し落ち着いて今お昼寝をしておられます」と言っていたので、この『お昼を食べたら落ち着いた』が重要なポイントで、多分私の予想ではお昼が、『食べたら意外と美味しかった』のではないだろうか??と思うのだ。今となっては食べ物とお風呂で釣るしかない!

やはりオババのゴネは続いている。
兄が、2日まで持ったら、迎えに行ってあげるよ。と言っていたのが可笑しかった。兄妹ならではの無言のunderstandだ。二人ともオババには、マジ手を焼いてきたのだから。

さて、いつまで持つか・・・
もし2日まで持ったら、今回は私の勝ちだ! オババが気が弱くなり始めていて、あるいは、意地を張るよりこのまま居た方が自分にとって良いと自覚できたということなので、少しは私のコントロール下に入ったことを意味するのだから。
しかし、オババはしたたかなのだ!どんな手を使ってくるか、何が起きるかわからない。

2011年1月24日月曜日

あれ、あれ、あれれれ・・・

オババが歩けない!

週末Kzさんがバングラデッシュヘ出張だったので、泊りがけでオババの様子を見に行った。
歩けない!
椅子にどうやって座ったのかは定かでないが、そこから立ち上がっても足が前へ出ない。つまりは移動ができないのだ。
パンツはびしょびしょだし・・・えらいこっちゃ!!!


木曜日には外出しているので、それ以後の症状だ。
金曜日の朝に「明日行くから」と電話した時に、「よく動けないんだけど・・・」と言うので「もう一日待って!」と前の日まで元気だったのが分かっている私は又いつもの『大げさ気を引く作戦』だろうと思ったので、そう言って翌日出かけた。

長野駅を降りて、東急で夕飯の食材を買って、家に着いた時はテーブルを前に椅子に座ってガツガツすごい勢いで何かを食べている。食事時に動物園にいるみたいな錯角が起きた。ひとごこちして、食べ終わったので、食器を片付けて、洗濯機の中で凍っているものを干しに行って戻ってきたら、一生懸命立とうとしている。どうせいつもの我儘と甘えで無言で立たせろと催促しているのかと思ったが、手を貸して立たしてあげた後に、一歩も動かない。
「どうしたの?」
「足が前に出ない」と答える。この場においてもまだ、本当かしら?と疑問が残った。私はいつもその大げさなアクションに騙されるのだから・・・。
ところがパンツもつまりは下にはいているもの全てがびしょびしょなので、全部着替えさせた。そういえば家の中も何やらすえたような匂いが漂っている。
ベッドわきのポータブルトイレを見ると、濃い尿の残骸が・・・そこから匂っている。

全部掃除して、シーツを換えて、、、、そうしているうちに、又パンツが濡れた。パッドを当てているのに
一体どうして?と思ったら大きなパッドに上に小さな尿漏れパッドを当てているので、それが溢れて大きな方にもれているのだが、小さなパッドとの位置関係が悪くて、かなりな分量が下着の方に吸収されてしまっているのだ。
「大きいのを一枚にしないと駄目だよ。今の状態では小さいのは意味ないから・・・」そう言って良く見ると下にあててあった、大きめなパッドをもう一度使おうとしている。
「お母さん、それはもう汚れているから駄目だよ。こんなに重いでしょ?」と言うと
「だって、濡れていない」と言い張る。
「今のパッドは上手くできていて、あたる部分に不快感がないように、濡れた感じがしないように作ってあるの、でももっと奥に一杯たまっているんだよ。だってこんなに重いでしょ?」いくらそう言っても分かってもらえない。使えるものを捨てて・・・と私を睨む。
「第一衛生に悪いよ。目だってばい菌が入って大変なことになったでしょ?あれと同じ。中にあるのはおしっこだよ」
もう納得させるのはやめて、全部分からないうちに汚いものは捨てることにした。
ううう・・・重い!
坪庭を見るとパッドがぶる下がって干してある。 彼女はあれを干してもう一度使おうとしていたのだ。
89歳とはそんな時代を生きてきたのだろう。使い捨てはもったいない!こちらが正常かもしれない。
私たちは豊かさに慣れすぎた・・・・しかし、洗濯をするのは私だ!

着替えもうまく出来ないので、良く聞くとどうも右ひざが痛いらしい。
力を入れると多分神経痛を併発していて、ズキンときてしまって歩けないのだ。私にはそんなことだらけなので、よく分かる。
足がパンパンに腫れているが、ふくらはぎはそう浮腫んではいない。老化現象かしら?血行が悪いことだけは確かだ。

着替えたら、「さあ、何か食べないと!」と力んで言う。
「今たくさん食べていたよ。夕飯用意するから、もう少し待っていて。」そう言うが納得できないらしい。

今脱いだ物を洗濯していると、変な布まで入っている。そうか、下着が濡れないように工夫したつもりなのだな?しかし彼女がやっていることは、仕組みが分かっていないので、全部無駄な努力で、むしろ余計なことをしているお陰で洗濯物が増えるだけ・・・それが分からない。

『ああ、しまったさっき着替えた時におしっこをさせておくのだった』と思ったら、又されてしまった。
足の循環のためにも「おかあさん、お風呂に入って少し血行を刺激しよう」と入浴を勧めたら、「まだ早すぎると文句たらたら」「時間かかるんだからもう入っても大丈夫だよ。あがったら夕飯」
そう言って、無理やりお風呂の準備をした。

ところが、洋服は脱いだが、お風呂まで移動できない。私がささえても杖を使っても、全くもって脚を前後に出せないのだ。重くておぶうこともできない。
「ベッドからこの椅子までどうやって動いたの?」と聞いたら這ってきたという。
「じゃあ、這って行ってみよう」 オババ・キャタピラー登場!と言っても寒い長野の地でストーブをガンガンたいていてもやはり裸では寒い。
「やめようか」と言ったが、今度は本人が納得しない。
どうにかお風呂にはたどり着いたが・・・・湯船にどうやって入れたらいいの???

足湯で足先を温めてあげたら、あまり気持ち良いので、どうしても入るときかない。
又腕を痛めるかな?と思ったが、できるだけ腕に負担をかけないようにやってみた。何しろオババの世話で腕を痛め、3年無駄にしたのだから・・・しかし、腕の分が一緒に治療していた腰の方にきた。やれやれ・・・ またしても、ヨガの先生の予言的中。「あなたは、小柄な身内の女性にからまれています。キリスト教的博愛の精神を持って同情すると、一生付きまとわれますよ。ある時は切り捨てて、自分を持って、自分の身は自分で守らないといけません・・・」

ちょっとのすきに、洗濯物を干しに行き、戻ってくると、何故かお風呂のお湯を湯船の中で抜いてしまっている。小さめのお風呂なので、私が栓ををするにもオババが邪魔でできない。「足をちょっとずらして」と言っても、本人はどうしてそうしないといけないのか全く納得できない。どうしてお湯が減っていくのか全くわかっていないし、どこに栓があるのかも分かっていない。旧式な風呂なので底に手を入れて栓をしないと駄目なのだ。ホテルのお風呂みたいに外側でプッシュするだけならいいのに・・・・オババのかかとが穴の部分に押し込まれ、抜かれるお湯に力を借りて、余計動かせない。

とにかく、やっとの思いで栓をしなおし、お湯を足して・・・私はびしょびしょ。

又、這って部屋に戻りパジャマに着替えて、夕飯になった。

よく食べる・・・実によく食べる。
夕飯の後も、「何か甘いものはないの?」と食べ物を要求し続ける。
これだけお茶を飲んだらおしっこは?と思ったが、多分脱水症状もあったのだろう、もう一杯、もう一杯をやかんを二回沸かすほど、お茶を飲んだ。

又洗濯をして、干して片づけをして・・・何だかくたくただったので、私は寝た。
案の定、夜中にぬらしていた。

翌朝、兄に相談の連絡をした。
日曜日なので病院も無理だし、私はその日のうちに帰らねばならない。水曜日なら又来れる・・・ということで、歩けないのだから入院しか方法が無いだろうということで、兄が月曜日に病院へつれて行ってくれることになった。
私の力では、動かせない。

兄が来るまでのあいだの2回の食事は、またまた実に良く食べた。
おしっこの始末と着替えのあと、
「お母さん、ご飯!」と言うと這って出てきた。椅子の所で座れないというので、「言うことを聞かないで一人で暮しているのだから頑張ってみて!意地をはって」と言ったら、さっと手を出して、「これを食べれば力が出て座れる」と言いながら蜂蜜を塗ったトーストを引っつかんで取って食べてしまった!
原始人暮しているような気がした。二つ目に手を出したので、さっと取り上げる。まるで子供や犬を躾けているみたいだ。その動作の速いこと!さすがもと運動選手。
「今食べたので、座るためのエネルギーは十分です。あとは椅子に座ってから食べなさい」と言うと、惜しい~って顔をして私を睨む。これで又鬼だと言われるわい。

やはり、呆け始めているのだらろうか? 
昔からかなりないたづらっ子だったらしいが、マジそう思う。あれを悪がきと呼ばずして、誰が悪がきと言うのか?それに引き換え、私はどうしてこんな真面目人間になってしまったのだろう? やはり父親似??
したたかオババにしてやられないようにしないと、お人好しな私はまた泥沼に・・・

今頃兄が病院で色々入院手続きをしてくれているだろうか?
それとも注射一本で痛みが取れて家に戻るのだろうか?
連絡待ちだ。

いずれにせよ、又長野へ行って格闘の日々かな。
家の子供達は二人とも、何の苦も無くオムツが取れた。もちろん布のオムツで育てたせいかもしれない。今度はオババのトレーニング。 お願いだから、おしっこの仕方を忘れないで!
家の父は、死ぬ直前まで尿瓶を使うのを嫌がり、トイレに行っていた。
「ソラちゃんに、臭いと気の毒だから」と病室のポータブルを使うことまで気を遣っていた。
このデリカシーの違いはどこから来ているのだろうか?
多分オババは野蛮人の血を引いているのだろう。
私の方が、先に死ぬかも~。

2011年1月16日日曜日

ピロリ菌その後

昨年退治したピロリ菌は、もしかしたら腸にも影響を及ぼしていたのだろうか?

ピロリ菌というと、胃炎や胃がん、十二指腸潰瘍、胃潰瘍・・・と上の方にある内蔵に関係していると思っていたが、小腸や大腸にも影響があるのだろうか?

何ヶ月(いや、長い目でみると何十年?)も続いていた下痢がピロリ菌の退治の後、すっかり止まってしまった。
私はお腹が弱くて、胃も腸も本当にげっそりするほど過敏体質だ。レストランで美味しいものが出てきても、いつもこれを食べたら何処でトイレに駆け込んだらよいのだろう?と思うと今日は我慢しておこう、控えよう・・・というのが常だった。食べたいのに食べられない。
ところがピロリ菌以降そんなに気にせずに食べても大丈夫なようだ。食欲も出てきたし、腸も調子が良い。どこへ行ってもトイレを探していた自分が嘘のようだ。
相変わらず、濃いコーヒーは気持ち悪くなるし、アルコールも胃がざらざらするが、以前とは何かが違う。
失ったものもあるかもしれないが、私には良い結果を及ぼしたような気がする。

ただ、食欲が出てきて、体重増加のコントロールをしっかりしないと、豚になってしまうかもしれない。
油っこいものが食べられなかったし、クリーム系も直ぐにお腹をこわしたから自然に体重の調節ができていた。おまけに食べ過ぎたら自分から下痢してしまうので、何もしなくてもそんなに体重を気にしなくても良かったのだが・・・・・今のうちから気をつけないと大変なことになるかもしれない。

胃腸の調子良さをプレゼントしてもらったのだから、運動をして、カロリーを消費してしっかり自分で調整しよう。脇腹に肉がつかないように・・・
そう、何か授かったままでは、都合良過ぎる。その分謙虚にならないと、必ずいつかぎゃふんとなるのが私の人生なのだから。

2011年1月15日土曜日

友だち

色々な人々が同窓会へ行ってきた、と時々話す。
特に小学校の同窓会、と聞くと驚きだ。

私が思うに、学校というものを卒業してから後にも先にも高校の同窓会がたった一度あっただけのような気がする。
実に不思議だ。
小学校も中学校も地方の普通の公立学校だったせいだろうか?
確かに東京の私立の小・中へ行った人は今でも付き合っている旨を良く聞く。田舎の公立の学校は本当に雑多な人々の集合体で、経済的、家庭の事情等様々で、なかなか付き合いが続かなかった。中学を卒業してすぐ就職をする人もいたし、もちろん高卒で就職が大多数だったのだから。私は比較的町の人間だったのかもしれない。
長野県がある意味ドライな風土だったのだろうか?それとも引っ張るリーダーがいなかったのかもしれない。いや、一番の理由は、多分地元を離れてしまったせいだろう。

還暦を迎えるにあたりふと考えてみたら、小学校の友人で現在も付き合っている人は一人もいない。
中学で3人。女性1人、男性2人・・・そのうち一人は自分の夫だ。しかも女性は高校も同じだったから残る確率はぐんと上がる。
高校の友人は、女子高だったせいもあるし大分社会的な立場が近くなってきているせいもあると思うが、少し残っている。それでも、年を経るに従って、一人、又一人・・・と減って行ったように思える。今でも続いているのが、5人ほどだ。当時本当に仲良しだったから、今も何気なく音信がある。
大学は男子校だったから、つまり100人のうち女性は1~2人だったので、今でも付き合いが残っているのは、女性一人だけだ。だいたい女が居なかった。

某放送局時代の友人は3人。

アメリカでの夫婦学生時代は、主人との共通の友人になるので揚げずにおくが、私が個人的に親しくなった人々も亡くなったり、引越しで行方が分からなくなったりで、少しずつ途切れてしまった。

日本に帰国して、子供が産まれ、練馬のマンションに住んで居る時にできた友人たちには芸術肌の人々が多く、今も続いている。友人は6人。みんな手に何か持っていて教えている人も多い。それぞれグループではなく1対1の付き合いだが、今でもとても親しい。ちょっと会わないでいると会いたくなる。多分大人になってほぼ自分が出来上がってから親しくなった人々なので経済的にも社会的にも気兼ねなく付き合える人たちだったから、自然な深い付き合いができているのだと思う。

そして、ここからが勉強会を通しての友人達なのだが、共通の好みがあるので楽しい良い付き合いができている友人たちだ。つまり仲間たち。グループ付き合いが多い。
まず、武蔵野市にある子供達の幼稚園の母親の英会話クラスで知り合ったお母さんたち。この人たちとは先生がアメリカへ帰ってしまってからもずっと勉強仲間で続いている。同じ志があるということは、人間を繋ぎやすくするのだろう。これが6人。彼らはみんな単独で勉強会に参加した人たちで、つまり友だちとつるんだりしてないので、個人個人が一人でも勉強したいという意志を持って入ってきた人々であったことが、長い付き合いにつながっているような気がする。

子供たちに手がかからなくなってから、地元の武蔵野市から離れて早稲田へ行って勉強を始めたのが、1997年。そして1999年からは上智での勉強が加わった。
後者がこのブログでもよく登場するKevinのクラスだ。これは映画と文学と英会話のクラスなので、ここでの友人達はマジやばい!つまり、映画好き、文学好き、旅行好きと3拍子揃うので、全く気が合ってしまい、お互いに色々な企てをして楽しんでいる。不思議なのだが、語学好きにはオープンな性格の人々が多く、誰とでも直ぐにうち解ける気のいい人が多い。へんな壁がないのだ。13年来の付き合いになるが、クラスをやめても付き合いが続いているし、色々な人々が出たり入ったりしながら、一生付き合っていくことになると思う。

早稲田の『女性と文学』や青山南先生の『原文で読むアメリカ短編』のクラスでは、普段も会って付き合うような関係は生まれなかった。お会いすれば懐かしいに違いないが、時々メール交換する人が3~4人いるくらいだ。先生は大好きで、授業を再開したらいつでもすっ飛んで生きたいが、クラスメイトとの付き合いはあまり発展しなかった。結構『わが道を行く』タイプの人が多かったのかもしれない。
多分今お会いしたら、みんな一癖あってとても楽しいと思うのだが・・・。

それに引き換え、2000年から始めたスペイン語のクラスはえらいこっちゃ!って感じで、全くオープンなラテン系の空気が流れている。これが私の肌に合っていて、実に居心地が良いのである。私はラテン系なのかもしれない。滅茶苦茶明るくて誰でも受け入れちゃって、ボーダーが全く無い。みんな思いやりがあり、感じよくて、心が広く、陰険な人がいない。居ても直ぐに感化されて、溶け込んでしまうのだ。
プロフェッソーラのせいかな?
おまけに好奇心が強くて、勉強好き!
「○○やろう!」って言えば、すぐに「そうしましょう!」と乗ってきて話がいとも簡単に決まってしまう。素敵な仲間達だ。

フランス語のクラスは5~6年在籍したような気がするが、スペイン語のノーテンキよりは少し気難しいかもしれない。

友人を分類しても仕方ないのだが、どこで知り合った友人たちも今続いている人たちは、かけがえのない人々で、死ぬまで付き合って行きたい。

ふと、心の整理のためにこんな事を書き置いた。多分年賀状を見たせいだろう。

2011年1月11日火曜日

スペイン語冬講座開始! ¡Vamos a estudiar!

今日から冬講座がスタートした。
私たちの本来の先生、パトリシア先生の講座だ。

久しぶりの仲間との再会、何と寛げるメンバーたちだろう。元気を一杯もらえる。
そして、いっぱい笑える。
勉強できる喜びを噛みしめて、今年も頑張ろうと思う。

すらすらディベートできるようになるといいけれど、まだ頭がオバババージョンだ。 やれやれ・・・

2011年1月5日水曜日

弱音を吐こう介護日誌② 洗濯機と格闘! 〜多分一人暮らしはもう無理

2011年も忙しくスタートしました。

1日にKzさんの両親のところへ年始の挨拶に行き、夕方からKzさんの兄妹ファミリーがわが家に集合し、楽しいときを過ごしました。
息子のKは早くも2日から仕事があるとかで、1日午後には名古屋へ戻りました。
2日に早速敷地調査、一軒取ったっと吉報をくれました。おぬしできるな!!

1日の夜から年賀状印刷、翌朝親戚と私の友人の年賀状を書き、ポストに入れ、Kzさんの残りの莫大な数の会社関係を印刷し・・・・これがいつまでたっても終わらない・・・夜遅くなってしまったので、途中で切り上げてはがきを持って軽井沢へ移動・・・相変わらず忙しい。

3日だけは少し休み。軽井沢の氷点下の空気の中で温かいスウェーデンハウスに安心しきっての~~んびり。Kzさんは年賀状をせっせとひたすら書き続けていました。

4日は朝早く起きてKzさんは長野の銀行へご挨拶。私も一緒に新幹線で長野へ、もちろんオババのところ。

今回はすでに12月30日の夕方に、「明日こっちへ来ないよネエ~?」とトンチンカンな電話がオババからかかってきた。私はお料理の真っ最中。手が離せないけれど、我慢して電話で話す。
「最近の電話は壊れているみたいで・・・どうしていつかけても『ただいま使われておりません』って答えばっかり返ってくるんだろう?みんな引っ越しちゃっているみたいだねえ」
ただ、間違えて押しているだけなのだが、説明すると長くなるので、うん、うんと聞き流す。

「明日は大晦日だからねえ、とても長野へは行っていられないよ。私長男の嫁だし」
それでもしつこく電話を切らない。同じ話しばかり10回くらい聞いたので、吐き気がしてきた。もう我慢できないので強行軍!なんたらかんたら理由をつけて電話を切った。

問題は4日の訪問だ。
先日取り替えた洗濯機の使い方が分からないらしい。
基本的には何も変わってはいない、つまり前回のものとできるだけ仕組みの同じものを選んでもらったのだから、何も変わらないと思うのが電気屋さんや普通の人々だ。しかし私は予想していた。

「お母さん、洗濯機変わると分からなくなっちゃうから、今のを我慢して使っていたほうがいいよ」そう助言したのを無視してオババは買ったのだ。覚えていろよ、オババ!!自分から買ったのだからな。

前回24日に行った時に新しい洗濯機が届いたのでやり方を教えて戻ってきたが、当然その時はできた。そして10日間洗濯はしなかったようで、前日に軽井沢に電話がかかってきた。
「お天気がとてもいいからお洗濯をしようと思ったのだけれど・・・動かないのよ」   やっぱり!・・・もちろん口で説明しても通じない。
「明日行くから、半日だけ我慢していてね」そう言っても納得できないオババ。
「直ぐに来て教えて欲しい」と言いたげ・・・自分の周りに人がいなくなったことをなじる、私がすぐに行ってあげないと言ってなじる、仕舞いにはみっちゃんが居てくれたら、と半べそ・・・・こうなると滅法押しが強いのがオババである。

まあ、いずれにせよ、私は翌日行ったのだ。
そして洗濯機使用の実施訓練を1時間に渡ってやったのである。『電源を入れて、スタートボタンを押すだけ!』それともう一つ水栓を開ける。それを教えるのに1時間以上かかり、最後もマスターしたか怪しいものだった。多分次回またできなくて、電話が来る。「今直ぐ来い」と。

それを何度繰り返しても「次にもう一度」と本人のリクエストでやるとすっかり忘れている。ほんの数秒前にやったことだ。スタートボタンを押すだけ!

大きな張り紙(図入り)を洗濯機の所へ貼った。「水道の蛇口を開く」・・・ここで「水道って何?そんなのない」と洗濯機の上のボタンを探す。何度蛇口を教えても、洗濯機のボタンだと思ってさがす。
①電源入れる
②スタートボタンを押す。
これでも分からないので、洗濯機の『入』の文字の横に①とマジックで書いた。『スタート』の横に②。
ところが今度は私が書いた①の文字の上を力任せに押している。②の文字の上も同様・・・・「ソラちゃん、はいらないよ」・・・あったりめぇよぅ!

さすがに情けなくなり、へたばったわたし。
勝手にしてくれー!

シャンプーは24日にしてあげたまま11日間もしてなかった。
洗ってあげたら、真っ黒い水がしたたり落ちた。

もう完全に認知症の領域ではないだろうか?
もう一人は無理なのでは? 
そう思いながら、「家から出たくない」と突っぱねるオババにへとへとになって東京へ戻った私でした。


【追記:そうそう、もう一つ!】
朝オババの家に着いた途端、一番のお気に入りの元暖炉の場所に今まであった毎年私が持ってくる花のカレンダーの代わりに、長新さん(ひいきにしている建設会社)のきれいな家の写真のカレンダーが飾ってあった。
母は、兄の会社がつぶれる前に作った家のお茶室に似ているのでそのシリーズの写真が好きだった。しかし・・・

この不景気なご時勢で、前回私が来ていた時(Xマスイブ)に長新さんがご挨拶に見え「すみません、今年は良いカレンダーを作る余裕がなくて、、、こんな普通のですが使って下さい」とおっしゃっていたのを思い出し、じっと見ると、2010年! 去年の物だった。
私がじっと見ていると、「長新さんはいつも良いカレンダーをくれるでしょ?今年も好きだからそこへおいたの」と無邪気に言う。うーーん、困った。何て答えようか???

「お母さん、これ去年のだよ。ほら、ここ見て。何て書いてある?」ボーっとしつつ、じっとカレンダーを見ている。
「2010年」
「今年は何年?」
「???2010年じゃないの?」
「ほらこれ今年のカレンダーよ」と言って私が持ってきた花のやつを見せると、
「2011年・・・あら、やだ。これ、去年のだったの??これだから嫌になっちゃうのよ。じゃあこれはもういらないわね。」と言いながらくるくる巻き始めた。こうして昨年のカレンダーは資源ごみの袋の中に納まった。
そして、私は自分が持ってきたオババのお気に入りの花のカレンダーを代わりに暖炉の上に置いた。「ここに飾っておくからね」
「お花、きれいだね」と嬉しそう。
やれやれ・・・一件落着!!

暫くして、オババはゴミ袋の中からくるくる巻いた紙を引っ張り出して来て、こう言った。
「ソラちゃん、これいらないのかしら?」
「・・・・・」  (又やられた!!) 私のバトルが再び始まった・・・・ググググォーー!

2011年1月1日土曜日

2011年スタート

あけましておめでとうございます。

毎年、年が明けた時に日記帳にその年の気持ちを書き記します。
今年はこのブログに書いておきましょう。

捨てる、捨てる、捨てる!
思い切って、何でも取って置く癖を改めて、不用な物は捨てましょう。
年の終わりに掃除をしていて思いました。この家に住み始めて15年目になりますが、置きっぱなしになっているものが多すぎます。もったいないはいいけれど、もったいなくない物まで取って置くのは止めましょう。

そして、色々なことも整理して、心の中もやっていることももっとsimpleにすることにしましょう。
惰性はやめて、いつも新しい気持ちで・・・。
そう、軽井沢の家を作って思ったのです。何もないところから新しい生活を始めるのはなかなか良いことだと。
PCが故障して、やむを得ず初期化した時にも、妙に解放感を持ちました。
今まで溜め込んできた価値観や物に縛られずに、flexibleに。いつも自分さえあればいいじゃん!
そんな風に思うのです。

とらわれない自分を目指して、今年はスタートします。身軽に、身軽に。