2020年9月3日木曜日

家がなくなるということ  〜家とは不思議な箱だ

長野にあった実家が更地になった。
私が生まれ育った家だ。
何度も建て直したけれど合計すれば70年以上家族の誰かが住んでいた家だ。
母がここ10年間東京のホームにいたため空き家になっており、もう戻れないであろうと判断した私はそろそろ処分をしようと考えていた。
今年2月母が亡くなったので思い切って売ることにした。



買主から送られてきた土地の写真を見て、更地になってしまうとこんなもの?と、ここに建っていた家の中にぎっしり詰まっていたものを思った。

すごい量の物・・・家具があり、仏壇があり、茶道具があり庭があり池があり木々があり、タンスの中には母の衣類や和服がどっさり、食器戸棚には思い出深い食器が、陳列棚には父が訪れた世界中の国々で買ってきた小物・・と、挙げるときりがない。

物だけではなく、計り知れない思い出は泉のごとく湧き出てくる。

とにかく詰まっているものを全部家ごと処分してもらった。
もう別の場所で暮らしている自分たちは、身辺整理をしないといけない年齢になっているので思い出には目を閉じ、兄と相談してキレイさっぱり全部ゴミとみなした。

一つ一つの品物を見てしまうと、とてもそんなことはできない、家に詰まっているものとはそんなものだ。

以前に読んだフリオ・コルタサルの短編で、家がなんだかわけのわからないものにどんどん占拠されて行ってしまう不気味な作品があったが、スペイン語で読んだので日本語のタイトルはわからないが、あの感じが背中の方でゾクゾク伝わってきたので笑ってしまった。本当に不気味な作品なのだ。不気味だけれどすごく的を得ている視点で描かれている印象深い作品だ。(*「占拠された屋敷」という邦題らしい)

家とはそんなものらしい。

一つの時代が終わり、もうその先の時代に手渡す時が来ているのだから、実在する物で欲しいものは受け継ぎ、不必要なものは捨てればいい。
心の中の整理は家ごと引き継ぎ、心の中で少しずつ整理しなおせばいい。置き場所はたっぷりあるのだから。

icloudのストレージみたいにもういっぱいですから大きな容量に変更したらどうですか?なんて言わないのだから。その前に自分の記憶容量の方が認知症でなくなってしまうかもだけれど・・・。





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