2013年2月28日木曜日

弱音を吐こう介護日誌(39) 〜ある日の老人ホームの風景 〜お友だちとの軽妙な会話、これでも認知症?

オババが珍しく絵手紙をやるというので、ダイニングへ連れて行った。
まあまあの仕事ぶりだが、マジ劣等生だ。

久しぶりにお茶の時間にSさんにお会いした。車椅子でやって来て、挨拶したら私たちのテーブルにつけて下さったので、おしゃべりをした。

Sさんは母がただ一人親しくなった人で、母より3歳上だったような気がする。
以前は杖だったが、今は移動はすっかり車椅子に変わった。

一度病気をされたことがあり、それから急に老けて、髪が薄くなって地肌が見えたりしたので、母は気が重くなるから・・と挨拶をするだけで近寄らなかった。
私は見かけると必ず近くへ行ってお話をしていたが。

今日は薄手の帽子を冠っていたので、地肌が見えない。とても似合ってキュートだ。元々小柄で目が大きく愛嬌のある可愛らしい人なのだ。

そこで口の悪いオババは、
「あんた、その帽子いいじゃない。よく似合っているわよ。ハゲが見えているよりよっぽどいいわ」
ときた。
私は『おいおい、オババ、そう来るか』と冷や汗をかきながら慌てて、
「すみません、口が悪くて・・・自分だってかなり薄くなっているのに」
と謝ったが、Sさん、
「大丈夫よ、本当のことだから」とニコニコしている。
「この人はいつもこんなだから、全然気にならないわよ。私、もう腹が決まって、何も気にしないでいいことばかり考えることにしているの。マイナス志向なし。
ここが気に入って、ここが安心で、誰にも迷惑をかけないでしょ。他の場所はないのだから、ここを精一杯楽しむのよ。」
と、とても良いことを言ってくれる。

オババは、マイナス志向の意味も分からないのだと思うけれど、
「私はもうここがつまらないから、他に移ろうと思って」と思いがけないことを平気で言う。
「あら、あなた、それはやめたほうがいいわよ。どこへ行っても同じよ。だったら慣れた場所が安全だし、いいでしょ?最初からやり直すの大変よ」
と実に筋の通ったことを言う。可愛い94歳!

以前お話したときより、バージョンアップしているSさんだ。
オババは真面目に
「そうかしらねえ〜」と深刻な顔。
今度はSさんの逆襲だ。
「あなた、そのしかめっ面止めた方がいいわよ。いつも額にしわ作ってその顔しているけれど、つまらないより楽しい方がいいのよ。笑えばとっても可愛いのに」
と、来た。

私は面白くなって、ニコニコして見ていた。
ちょっと口をはさんで、
「そうなんですよ、いつも愚痴ばっかり、しかもこの顔して。」
と、又しかめっ面に戻ってしまった母を指差して、みんなで大笑い。

他のテーブルの人たちは何が盛り上がっているのだろう?と思っていたに違いない。
けれど、笑いが足りないホームでの、私たちの笑い声はみんなを和やかにしていたような気がする。
だって席を立ったとき、みんな笑顔で私と母を送ってくれたから。



2013年2月22日金曜日

冠攣縮性狭心症と水

以前にこんなブログを書いたことがある。

この時、冠攣縮性狭心症と閃輝暗点に共通点があるような気がしていたのだが、多分どちらも血管の収縮や痙攣と関係しているのだと、自分の身体を通して感じていた。

そして多分どちらも自律神経が大いに関係していて、交感神経と副交感神経のコントロールがうまく行かない為に起きるように感じる。

今日久しぶりに狭心症の前兆が来た。
頭の血管が同時に締め付けるように縮み始め奥歯と下あごがぎゅーっと締め付けられる。
いつもだとこの後、背中の心臓の裏側あたりから放射状に痛みが拡散してきて、胸の方にも広がってくる。ここでたまらない痛みになるのでニトロを飲む。

『ああ、また発作が始まるかな?』と思った矢先、以前珍しく同じ症状を持っている人に出会い、(彼女はとても親しい友人なのだが、この時初めて同類だあることを知り、この思いをシェアできることの喜びを持った)彼女のお姉さまたちにも同じ持病があり、姉妹でそういう体質の遺伝子を持っているのだと言っていたのだが、

「あなた、騙されたと思ってお水を飲んでごらんなさい」と言われたことを思い出した。

数ヶ月前に起き始めたときには、ニトロの代わりに救心を飲んだ。そして治まった。
先日すごい頭痛と一緒に閃輝暗点が来た時にも『もしかしたら』、と思い、試しに救心を飲んだらギザギザ稲妻が消えた。

救心は自律神経系に働きかけるようなので、軽い時にはこれが効くことが分かった。

今回は彼女の顔を思い出して、水だけにしてみた。
不思議と楽になった。
そう言えば、救心の時にも水を飲んでいた。

先日めまいで気持ちが悪くなった時には、救心も水も効かなかった。

ニトロを飲むと全身に響いて、しかも後がクラクラよろけて3〜4日間大変なので、軽い時は、
まず、水
そして救心
それでも治まらなかった時に、ニトロ

これで、行こう!

ストレスから来ているのだろうなあ〜リラックス、リラックス〜

2013年2月21日木曜日

弱音を吐こう介護日誌(38) 〜マイナス志向真っ只中 〜穴の開いたスリッパ

昨日、今日とおばあさんは呆けが進んで、言っていることがしっちゃかめっちゃかの上、マイナス志向一直線。
死にたい、死にたいの一点張り。

目の前の人が分からなくなるのも、時間の問題か・・・。
私は聞き流すしかない。

昨日は、その重さをどうにかかわそうと、家に戻って数ヶ月ぶりのウォーキングに。
今日は、いなげやに寄って買い物。

しかし矛先はどっしりと重く、自分が責め立てられているかのように被害妄想的にのしかかる。『何かしてあげられるだろうか?? 自分にできることがあるだろうか??』 いつもその自問自答。

おしゃべりだけは得意だったオババだが、まず会話が成り立たない。
スリッパのかかとが穴が開いてしまったので、新しいスリッパを持って行ったが、穴のあいたスリッパを絶対に処分させてくれない。

一秒経てば何でも忘れるのに、何分経っても、何時間経っても
「さっきのスリッパは?」
と聞いて来る。又、聞く。 そして又・・・。

以前に捨てようと思ってどうしても駄目だと言ったスリッパを指差して、「だって、あれもあるのだから、いらないでしょ?」と言うと、
「あんなもの、いらないわ」と言うので、しめしめ、この時とばかりにそちらをゴミ袋にいれてわたしのカバンに入れてしまった。どうせ使わないのだから。
ゴミ箱に入れると、絶対に又取り出してしまうから。

そして、それがあった場所に、穴の開いたスリッパを置いて来た。

いつも、捨てた箱はどんな物でも次ぎに行くと必ず取り出してある。ポッキーの箱でさえも・・・。やれやれ、憂鬱だ。

「じゃあ、又来るからね」
一緒に玄関まで来ると言うので、
「じゃあ、靴に履き替えないとね」お部屋を出る時はスリッパでは危ないので、靴を履かないといけないから。いつも必ずそうしている。
「そんなもの履いたことない。スリッパでいい」と言いはりながら、足下を見る。
はっと気が付いて、
「そう言えば、こんなの履いていたわ」
と靴に履き替えました。

スイッチ、on!
こんな感じでこれからも正気に戻ってくれるといいけれど・・。

こうして私は、時々心臓がえぐられるような気持ちになるのです。


2013年2月14日木曜日

El Principíto (星の王子さま)〜蛇はamiga?それともmala?



スペイン語のパトリシア先生との勉強会で"El Principíto"(星の王子さま)をやった。
(原文のフランス語に近い言語で読んでみよう!)

2章と21と26章を中心にやったのだが、結局全部読んでしまった。
日本人ほど、この作品が好きな人種はいないのだそうだ。

高校生の頃、英語で読んだ。そして我が家には、フランス語、英語、そしてスペイン語の王子さまがあり(日本語もあったはずなのだが・・・どこ?)、更に、サンテグジュペリに関する本は山のようにある。(ちょっとオオゲサかも・・小山くらいかな?)

勉強会で色々あったうちの面白い論点が、「蛇は友だち(amiga)か、それとも悪者(mala)か?」だった。
先生が "serpienteはもうdomesticadoされてる?それともprincipítoを騙しているだけ?さあ、みんなで話し合ってみて!"

我々のグループは、女性5人、男性1名。
女性陣が友だち、あるいは少なくても悪い奴じゃないという意見、
男性が一人頑張る、
「蛇は悪い奴に決まっている、昔からそういうものだ」などと言いながらmalaに一票! 
「蛇は狡猾のイメージがあるかもしれないけれど、知恵があって賢いとも言えるわ〜」
と、ロマンチストとリアリストに分かれた。

蛇は王子さまが地球に降り立った時、最初に出会った生き物だ。(17章)
人っ子一人居ない、砂漠のど真ん中で、地面を這っている見たこともない奇妙な生き物に向かって、王子さまが「何にもなくて寂しいね」、と言うと、
「たくさんの人と居たって寂しいよ」と、なかなか意味深いことを言う。多分今までの経験から、そんな答えが出たのだろう。蛇は一人ぽっちだった。

『ただの人』と、『関係を持った関わったことのある人』との違いだ。

serpienteとprincipítoはこの章で、ちょっと関わりを持ったのだ。蛇にとって、王子さまとの出会いは、その他の『たくさんの人と居る』だけの意味合いとは少し違う『関わり』があったのではないだろうか? それは王子さまが何かを求めて語りかけるから・・・その蛇に聞いているから。

キツネに言わせると、domesticado(飼いならすと訳されているけれど)の意味は、"crear lazos" (絆を作る)ということなのだそうだから。時間と労力をかけたそこの過程を通り過ぎないとamigoはできない。

だから26章で、毒を持った蛇が王子さまに噛み付いて魂をバラが待つ彼のplanetaに戻してあげる手伝いをしたのは、少なくとも悪意からではなく、静かなクールな好意からだと私は思った。


さて、どうしても引っかかったのは、domesticadoという言葉。
原書でも、"apprivoiser" という単語が使われています。
意味は同様に、飼いならす、従順にする、手なずける、慣れる・・・。

そして、キツネが言う飼いならすことの意味は、créer des liens..    でやはり、『絆を作ること』なのです。

でも、私にとっては、飼いならすという言葉からは、むしろか家畜化したり、上下、あるいは主従の関係があるような響きがあって、馴染めません。飼いならした後に、上下関係ができてしまうような気がするからです。

英語でも、 "tame"という単語が使われています。
言語の違いなのでしょうか?(日本語で今回は読んでないので、どう訳されているかは確認してありませんが・・)

サンテグジュペリさんにお聞きしてみたいです。

      *

「友だちが欲しかったら、まず、ボクを手なずけてごらん!」
el zorro(キツネ)になったつもりで言ってみると、心の中で『おまえにできるものならやってみろよ』と思いながら、手なずけられる方が挑戦している感じでむしろ上から目線、そして王子さまが手なずけたらそこで上下が逆転するのではなく、『対等』になるのだとしたら、domesticadoも悪くないのか・・・

自分がキツネになってみたら、サンテグジュペリさんにお聞きする前に納得しました。

ああ、楽しかった!


2013年2月11日月曜日

『風の影』 ~La sombra del viento






12年間スペイン語の勉強をしてきて、何回この名前を聞いただろうか?




"La sombra del viento"(『風の影』)というタイトルと、サフォン(Carlos Ruiz Zafón)というスペインの作家の名前。



私には新しい作家で、今までに一度も読んだことがなかった。 もっとも2001年の作品だから、私がスペイン語を始めたのが2000年なので、比較的新しい作家ではある。
(日本で翻訳が出たのが、2006年)

初めて聞いた時に、古典かと思っていた。
ドンキホーテみたいに、古くからあるものだと・・・。

たまたま同じクラスのIさんが、スペイン語ではなく英語で読んだのだが、大好きだと薦めてくれたのがきっかけで、直ぐに本を買って読み始めた。全然古典ではなかったが、1945年から物語が始まるから、決して今ではない雰囲気は漂っている。

お湯が沸くまでの間とかちょっと座った時〜とか空いた時間でどんどん読み進み、最後にはテレビも観ずに夢中になって読んでいた。
こういう読み方って、『1Q84』以来のような気がする。

ミステリーや冒険の範疇に入るみたいだが、そう、『ゲド戦記』や『ダビンチコード』などの世界に少しずつ近いか?
けれど、内戦や歴史的、社会的背景による人々の心の在り方も描かれるので、それだけではない何かがたくさん含まれている。

舞台は1945年のバルセロナ。
これで、私は直ぐに物語の中に入って行ってしまった。つまり一人で散々歩いた町なので、地理がすっかり頭に入っていて、何もかも目に浮かんで来るのだ。とくにランブラス通り近辺など何度歩いたことか・・・
だから、すっかりその気になって作中の人物たちと行動をともにし始めた。

父親は古書店を営み、10歳になった息子のダニエルを『忘れられた本の墓場』に連れて行く。ろうそくの炎に照らし出されたこの場所が目に浮かんできて、この舞台設定の素晴らしさで釘付けになり、止まらなくなった。そして、更なる深みへ。

ダニエルはここで本を一冊選んで、その本を一生涯かけて守らなければならない、と父親と約束し、まるで隠してあるように置いてあった場所に手が伸びて、吸い付くように選んだ一冊の本が『風の影』だった。ほとんど知る人のいない一冊の本。

この本と、その本の作者、フリアン・カラックスを巡って、大変な世界に巻き込まれて行くのだが・・・。

誠実な父親のセンペーレさん、つかみ所のないホームレスのフェルミンなど、登場人物の豊かさと、主人公のダニエルの正直な勇敢なのか気が小さいのか判断が難しい楽天家的人間らしさが大きな魅力になっている。

そして、これは作者の表現力のすごさなのだろうが、ダニエルとフリアンを巡って、現在と過去が交叉し、今の彼に起きている事なのかフリアンの世界の事なのか・・???と二つの次元が解け合ってくるのだが、読み手が自然にその混沌とした世界に引き込まれてしまう、その持って行き方のうまさに、脱帽だ。

映像ではなく、文字で、こんなことができるのだ〜〜と人間のイマジネーションをついた作者の力にひたすら感心した次第だ。

マリオ・ベネデッティの "La Tregua" を翻訳した仲間の一部の人々がこの本の翻訳をしていたが、訳していたら又、読んでいるのと違った世界が見えて来るのだろうなあ〜と興味津々だ。

久しぶりに夢中になって、物語の世界に浸った。






2013年2月7日木曜日

弱音を吐こう介護日誌(37) 〜認知症でもやはり、母は母

珍しく、認知症のオババが
「ソラちゃん、あんまり具合良くないの?」と聞いた。

この人はそういうことに特に最近はあまり気がつかないことがほとんどなので、ビックリした。

「そうなんだ、昨日もめまいがひどくて吐き気がして立っていられなかった、、、、何だか分からないけど、具合悪くて・・・めまいの薬飲んだんだけどね。今日も頭の位置が変わると何だかクラクラ、ムカムカ・・・」

今日は顔色が悪いと思って元気に見えるように赤系の洋服を着て行ったのだけれど・・・ばれてしまった。

「どこか変?」と聞くと
「何だか痩せたみたいな、やつれたみたいな感じだよ」

親とはありがたいものだ。

姑には具合悪いのに笑顔で頑張ったって、気付いてさえもらえない。最近こんなこと言われたことなかったので、妙に嬉しかった。

辛い時に、誰かが気にかけてくれるってこんなに嬉しいことだったのだ!

無邪気な認知症の母が、自分のことで精一杯の母が、こころのこもった一言を発してくれた事実は何と心温まることだろう。本能で気が付いてくれることのありがたさ、理屈抜きの肉親の情は背負っているものを担ってもらったような感じがして、心が軽くなった。

ホームのスタッフが母を好きなのも、こんな本能的な一言があるからかもしれない。
「市川さんにこんな声をかけてもらった」と何人かの人から言われたもの。

オババ、頑張れ!

明日は検査 〜体重はなかなか減りません

このblogは2012/11/15木曜日に書いた物で、下書きに入ったままになっていたので、本日公開。この結果は、体重がかろうじて下がっていたので、ドックまで様子を見ることに。
薬は延期となり、ホッとした私です。


2012年11月15日木曜日
検査の前にはいつも憂鬱になる。

たかが高脂血症の検査、特にLDLコレステロールの値との格闘なのだが、全く下がらない。
何をしても下がらないこのストレスはかなりなものだ。

そのままで良いのならよいが、上がったら新しい薬を飲まねばならないからだ。

私は今まで、全てのコレステロール系の薬で反応を起こしてしまっているので、その副作用の強さを考えると薬を絶対に飲みたくないのだ。

今回は一週間に2回40〜50分の早足ウォーキングと体重を1kg下げることが課題だった。全くダイエットをしたことがないので、今までと同じことをしていて何故体重が増えたのか?と考えたところ、生活が楽になったからだという結論に達した。

①母の世話が一段落して、極度のストレスから解放されたこと。
②金曜日の英語のクラスがなくなったことで、生活の負担が随分軽くなったこと。
③母の所へ車で行くようになり(週2〜3回)、ホームでも動かないので運動量が著しく減った。

スペイン語だけになったので、しかもレベルを少し下げたので、今までは眠る時間もないくらい、予習と復習に取られ、十分準備ができないことによる、精神的負担が大きかったが、今はそう言う意味ではゆるい生活が出来ている。まさに丁度よいのだ。comoda!

この『ちょうど良い』がくせ者だったのだ。
今までの負荷のかかり過ぎた生活に比べると、ちょうど良いのはかなり快適で、人と会ったりする時間さえでき、ストレスが減った。今までは生きているのがやっとで、眠る時間があるのが嬉しくて・・・テレビなど観れなかったし、余程決心しないと映画など行けなかった。
そのゆとりが、今までなかったものだから、私に体重の増加を与える結果になったのだ。

それは、良いことなのかどうか・・・? やれやれ・・・