2010年11月29日月曜日

『哲学者とオオカミ』  by マーク・ローランズ


"The philosopher and the wolf" by Mark Rowlands

-Lessons from the wild on love, death and happiness


副題: 愛・死・幸福についてのレッスン。

訳者:今泉みね子


Kzさんに薦められて読んだ本。

こんなに本が体内に入り込んできた作品はとても珍しい。

読み終わった後も、著者が暮していたオオカミのブレニンが、私の家の中をあっちこっちうろうろしている。


哲学書のはずなのだが、気がつくと彼のブレニンとの暮らしぶりのところばかり一生懸命に読んでいた。しかもしっかりと記憶に残って、ブレニンの活き活きした様子が心に焼け付きその上映像になってはっきり、しかも温かく、微笑ましく残っている。

Kzさんは哲学的考察の部分が好きだと言っていたが、私は頭が単純なので、ブレニンの描写の部分ばかりが優先される。


この著者はブレニンと言う名のオオカミと10年以上一緒に暮らし、彼を通して多くのことを学んだ。二人の関係はどこにもない関係・・・家族、友だち、同志、分身・・・・そんなものが全部一緒になったようなとても素敵な信頼関係だ。そして、そこから発進されてくるものは私の頭の中で映像になり、心を刺激して、更に脳の中では思考に向かって行く。


ブレニンが魅力的なこと!

この魅力が彼の哲学とつながって行く。 どうしてブレニンがそんなに素敵なのか!!

そして、そのブレニンが彼の中にも住んでいる、人間の中にあるオオカミ的部分が刺激され、共鳴し、融合する。それこそが、人間が忘れてはならないオオカミ的なもの・・・・時間の流れ、瞬間、記憶、喜び・・・


終わりまで読んだ時、又初めに戻りたくなった。

彼が書いていることを私はたくさん読み落としてきたことに気がついたからだった。特に哲学的考察の部分。 それぞれがブレニンの行動の一つ一つにつながり、とても大切なことを述べているのだから。時々引っ張り出して読んでみよう。

そうすればブレニンが私の過ちを修正してくれる。


今は、ブレニンの感触の中でブレニンを感じていればそれで良い! そう思う私です。


訳者の今泉みね子さんの訳は活き活きしていてとても素敵で、どんな人なのか?と興味を持ちましたが、ドイツのフライブルグ在住ということで、興味深い環境都市に住んでおられるので、多分色々テーマがおありなのだと思いました。彼女の姿勢が素敵な翻訳をうみだしたのだと思います。




2010年11月25日木曜日

弱音を吐こう介護日誌① 困ったねぇ~益々認知症傾向大、ケアマネさんも困る!

Kzさん台湾に出張中につき、オババの所へ行ってきました。

背中は前より更に曲がってきました。丁度『みなしごハッチ』とかテレビの人形劇『新三銃士』のリシュリュー枢機卿みたいなカーブを描いてきているので、老婆の風格が出てきました。
杖をついて、黒いドレスを着たらまさに魔女、しかもわるーい魔女!

それほど時が経っているわけではないのに、老化はかなり進み・・・一番気になるのは、とにかく子供みたいに同じ事をひっきりなしに繰り返して質問するようになったことです。今まではある一定の時間内に同じ話が何度も出てきてうんざりでしたが、同じ質問を立て続けに繰り返すようなことはありませんでした。
よく、お母さん同士がおしゃべりをしていて、聞きたいことがあるのに答えてくれない時、子供は何度も繰り返して聞きますが、まさにあのパターンをおばあさんがやるのです。

最初の洗礼: 郵便物。
前回行った時に始末した後に来た郵便物の中に大切な物がないかをチェックします。
まず「これはもういらないから、捨てていいよ。これは大切なものだからここに入れておくからね」と選別します。ところが、捨てていいからと渡した郵便物をすぐに持って来て、全部又聞きなおすのです。
次は、ばらばらに持って来て、聞きなおす。

「これは、捨てていいのかね?」
「いいよ」「これは?」「それも捨てていいよ」・・・・とこの時までは私もまだ優しく答えています。
少し経つと、又・・・
(『えーーーーっ!!どうなってるの?今聞いたばかりやん。しかも何回聞いた?封筒が恐いよ~』)

それでも私は「捨てていいよ」と答える。
だってKzさんに「ソラさんきついよ、優しく言ってあげないと駄目だよ」と釘をさされているから。

あまり繰り返すので、「これはもういらないから捨てちゃおうね~、紛らわしいでしょ?」と、クズ籠に捨てると、
今度はなんと、捨てたばかりのくずかごの中から引っ張り出して来て、
「これ捨てていいのかしら」とやり出す。(我が目を疑う私)
「おいおい、捨てたのわざわざ出して来るなってば・・・」
またくずかごへ行ったので、とうとう「今度引っ張り出してきたらマジ怒るよ」とにらんだ私。
そしてオババがトイレへ行った隙に、「これ以外に方法なし」と全部細かくちぎって見えないところへ捨ててしまった。

とにかく、郵便物のみならず、今回はあらゆるところでこの怪現象が起きました。私はまるでアリスのコーヒーカップの中でぐるぐる回りながら生活しているような気分になり、最後には頭がくらくら、胃がむかむかしてきました。
前はこんなじゃなかったのに。
とにかく気になることがあると、そのことで頭が一杯になってしまうみたいで、質問の答えを聞いてもそれが記憶に残らず、気になっていたということだけが気になってしまい、又質問を繰り返すことになるらしいです。

ケアマネさんも音を上げるほどの頑固者。
本当に不安になります。この状態の一人暮しって・・・困ったなあ。
ジジちゃん、天国から降りてきてお助けマンして欲しい!

2010年11月22日月曜日

完全休養のつもり

昨日の午後、急に腰の右側が痛くなり、動作の変更がとても困難になった。

腰痛ではずっと悩んでいたけれど、神経にズキっと来るあの痛みは、もしかするとぎっくり腰の一種だったのだろうか? それとも坐骨神経痛? 両方同時?
「いたっ! 痛いっ!」声を張り上げずにはいられない痛さ。体を前にかがむことができない。立ち上がれないし座れない、もちろん腰をかがむこともできない・・・痛くて涙が出てきた。

実のところ、今日は久しぶりに何もない日で、明日のスペイン語も祝日のため休みだし・・・・自分へのお休みで今日は『SP』でも観にいこうと思っていたのに・・・この痛み。
こんな自由時間が長いことなかったなあ~と解放感に満ちるはずだったのに、この腰の痛みでおじゃん!

よって今日は家で休暇に決めた。
まず朝風呂に入って腰の痛みを緩和させた。これだけで十分贅沢!
私は昼間にテレビを観る時間などまずないから、撮っておいたビデオを観た。これはむしろ罪悪感。
何と貧乏性なのだろう? 昼間からこんなことをしていて・・・なんて思ってしまう自分が情けなくなる。

そうこうしているうちにKzさんから電話が来た。
「明後日の台湾行きの飛行機のチケットを二人分取って欲しい」と。 
私はいつも無償で働く秘書。

PCに向かうだけでも腰が痛いのに、おまけに聞きたいことがあって、折り返し電話しても全く出る気配なし。急ぎのチケットのオンライン予約、先に進めない。あいつはいつだってそうだ、自分から電話してくるのに、自分は電話に出ない!! 電話にでんわ!!(界王さまーぁー!)
又ストレスが戻って来た。余計腰の痛みを感じる。
折角「完全休養!」って宣言したのに、やはり貧乏神は私に付いてまわる。
もしかしたら、ストレスの元は夫なのだろうか?

ああ、旅に出たいなあ~、秋だなあ~
厄介ごとは全部忘れてしまいたいなあ~
とたまにはつぶやいてみるのもいい・・・かも。
twitter やろうかな?

2010年11月18日木曜日

緊急ボタン 〜認知症的拒絶反応

長野市の市政はあまり感心しません。

県の方針なのか市の方針なのか分かりませんが、以前80歳以上の一人暮らしの老人宅に緊急ボタンのついた電話を設置しました。 それが今年から有料にすると言うのです。

「お金を払わないと、緊急呼び出しは受けられなくなります」と言われ、仕方なしに有料のサービスを受ける契約をしました。
今日その工事に来たらしいのですが、受けられるサービスは向上するものの、オババには何のことやらさっぱり分かりません。 一人で暮している老人からお金を徴収しなければならないほど市の財政は緊迫しているのでしょうか?

「どうしてこの歳になって、毎月更に市にお金を払わなければならないの?私は電話さえ通じればそんなもの必要ありませんから」っと取り付けに来た人にくってかかったようです。

確かに変です。福祉の面から言っても88歳の老人から今まで無料だったものを有料にするなんて、有り得ません。だから長野市はあのようにさびれ、汚いみすぼらしい町になってしまったのでしょう。
有能な人に政治家になって欲しいです。

「私は電話さえ通じれば何もいらない」とは言うものの、一人なのでどこかと繋がっている方が良いと思って契約した私がいけないのかもしれませんが、ここまでオババに嫌がられるとは思ってもみませんでした。
何かの位置が変わってしまっただけでも、パニックになるので気持ちは分かりますが・・・

ヘルパーさんも全部断ってしまったし・・・・何でも自分かr断ち切ってしまいます。
これから更に大変になると思います。

それなのに、「死にたい、死にたい」と言われると私も本当に困ってしまいます。
どうしたらよいのでしょうねえ~

2010年11月17日水曜日

くじ運

自慢ではないが、写真写りの悪さとくじ運のなさには自信がある。

以前35枚分のくじを一度に引いたことがあったが、全部はずれだった。
油取り紙を36セットもらって帰ったが、私は脂性ではない。
同情のこもった目で、まじまじと見つめられ「珍しい方ですね」と言われた。

ところが今日、息子の所へ送る宅急便を出しに、近くのセブンイレブンへ行った。

私は何かの支払いと宅急便以外にコンビニへはほとんど行ったことがない。
しかも今日はもらったQuoカードで払ったから、全然お金を使ってないのに、
「どうぞ、一つ引いてください」と箱を出された。
「当たったためしがないんですよ、くじ運まじ・・・」と言いながら一枚差し出すと、
「悪くて」と
「あら、当たってる!」の声が重なった。

「えーー!!私にも運が向いてきたのかしら?えーー!!うそ!!ありがとうございます」
店の人も私があまり嬉しそうなのでニッコニコ。

何も買わずに、ワイドハイターひとつもらって帰ってきた。
何だか良い日だった。

息子の運を取ってしまってなければいいけれど。

『三つ数えろ』 


今クラスでやっているレイモンド・チャンドラーの"The big sleep" (『大いなる眠り』)の映画の日本語タイトルだ。

映画の中にこの台詞があるが、何故この本題と全く関係ないこんなタイトルになったのか?ちぐはぐさにあきれてしまう。

このクラスを始めてもう10年以上になる。

毎年映画と本を2つずつやっていくから、もう20本以上の作品をやったことになるのだろうか?


ハワード・ホークスの監督作品はマリリン・モンロー主演の『紳士は金髪がお好き』(Gentlemen prefer blondes) に続いて2作品目。 ハンフリー・ボガートの主演は『マルタの鷹』についで、2作目だ。

このクラスの先生、Kevinの選ぶ作品はかなり自分の好みに偏りがあるが、筋の通った作品を選んではいるのだと思う。
今回は私は真面目にやっているが、さすがに映画と本の違いに目をやると、色々な点が気になる。何においても、本がまさっている。やはりハリウッド映画はエンターテインメントだ。そして最近の不振はやはりその辺の甘さに原因があるのではなかろうか?ヨーロッパやアジア系の映画、あるいはミニシアター系の映画に押されているのはその影響もあると思う。

さて本題に入ろう。

この作品の難点は、スターンウッド家の長女ヴィヴィアンの使い方にある。原作での彼女と映画での彼女が違いすぎる。つまりボギーの奥さんであるローレン・バコールを映画に絡ませようとした結果が作品をつまらないものにしてしまった。ヴィヴィアンはもともと金持ちのちょっとふしだらな放蕩娘なのだが、多分ローレンの印象を魅力的にする為に、知的でindependentな印象を加えて性格を変えてしまった。映画としたらその方が受けるのかもしれないしアメリカ人好みなのかもしれないから文句は言えないが・・・。

原作のプロットの面白さや緊張感、表現したいものが変わってしまって、単なるエンターテインメントになってしまっている。

1945年製作版と46年があるが、ヴィヴィアンのせいでストーリーに無理がかかりつじつまが合わなくなってしまっているので、私としては45年版の方が原文に忠実で面白い。とってつけたような会話はバカらしくて苦笑いだ。 けれど、クラスのS氏はそこの場面が一番好きだと言っていたから、人それぞれだ。彼とは感性がまるで違う。

結末も、主題も映画と本では大違いだが、まあクラスの教材として、色々考える秋には良かったのかもしれない。

2010年11月15日月曜日

ロング・グッドバイ  by レイモンド・チャンドラー



フィリップ・マーロウのことが知りたくて、"The big sleep"(原文), 『さよなら、愛しい人』(村上春樹訳)(Fairwell, my lovely"(原文))に続いてこの作品を読んでみた。

今英語の"English through cinema" のクラスで The big sleep をやっているので、授業の発言に厚みを持たせたくて自分なりのアプローチをしている。
原文はとても良く書かれていて、以前にも書いたがその文章の巧みさ、チャンドラーの観察眼の鋭さに魅せられているが、この作品は村上さんの訳で読んでいる。

村上さんは、ロング・グッドバイとフィッツジェラルドの『グレード・ギャツビー』を対比して後書きされていたが、その指摘を目にする前の時点で、確かにギャツビーと重なるなあ~と思いながら読んでいた。
後書きを読んで、やっぱり!と思った次第だ。

内田樹さんが、そこに更に村上春樹の『羊をめぐる冒険』を加えて3作品の共通性を述べていたけれど、確かにロング・グッドバイと羊もある意味、繋がるかもしれない。

この作品がマーロウをつかむ上では3作品の中で一番個性が出ている気がした。
というか、前2作品よりも、マーロウが人間的で深みを増し、しかももっと良い人に感じるのは私だけだろうか?
クールでハードボイルドなマーロウだけではなく、人間として男として成熟したマーロウだ。人間の深みに入って行くのはたまらない。

ところで、私はフィリップ・マーロウの彼をめぐる登場人物との距離感が好きだ。
主役から端役まで作品に出てくる全ての登場人物との距離感である。
心がどうであれ(とても近くても)、決して近くなり過ぎない、この絶妙な距離感。命がけで助けても、そこに存在している距離感。 

自分と自分以外の人間との境界線が、彼と彼が出会う全ての人々との間に存在している。私はその彼の意識的なアイデンティティを含んだ距離感と、彼の無意識に人間的な心の中での距離感とを比べながら作品に読み入った。

そして、そのマーロウは今授業でやっている、the beg sleep のボギーが演じているマーロウとはちょっと違うイメージを描いている。
【補足】
この作品を読んでいて一番感心したのは、女性の描き方の上手さだった。
圧巻だったのは、マーロウがニューヨークの出版社のハワード・スペンサーという男と会うためにホテルか何かのバーに行った時のことだ。そこに一人の女性が現れた。
彼女の美しさを現す空気感の素晴らしさ、『一瞬、まわりの物音がすっかり消えてしまった。』とある、そしてどのように物音が消えたか描写しているのだが、今でも鼓膜を揺すぶったインパクトが残っている。
そして気品のある、非の打ち所のない美しい女性、アイリーン・ウェイドの登場になるのだが、その時にはまだ彼女の役割は分からない。
3作品の中でこの女性の登場シーンの描写が一番美しい。
もっとも別の意味で、『さよなら、愛しい人』に描かれる女性達もロートレックの絵に描かれている女達のようなしたたかな逞しさで魅力に満ち溢れていたが・・・。
男性から見た女性の美が興味深い。

2010年11月14日日曜日

冬越えの準備

軽井沢はもうすっかり秋です。すすきがゆらゆら揺れて、秋の気配を運んでくれています。
夏の終わりはこんなでした。
Kzさんの努力の跡を記録に残しておきましょう。





夏の終わり、抜いても抜いても来る毎にすごい雑草!散歩の叔父さんがお気の毒に・・・と同情してくれた手や鎌でやっていた雑草取りの対策を考えました。






やはりこれしかない!とついに草刈機を買いました。ぐい~ん、ぐい~~ん! 慣れるまで大変!でも慣れると楽しそう。(本人は筋肉痛でそれどころではなかったらしいけれど)




きれいになりました。 ただ刈るのではないところがkzさんらしい。二階から見ると渦巻き。このスパイラルにはかなりな意味がこめられているらしい。
こういう変なところがうちのだんな様にはあるのです。この庭がこれからどんな風になるか、お楽しみに!

でっかい靴

朝起きたら、玄関にデッカイ靴があった!

『おっ!とうとう来たな!』
息子の部屋をのぞいたら、洋服を着たまま枕を抱っこしてぐっすり眠っている。
もしかしたら帰るかもしれないと言っていたが、ここのところ全部つぶれているので、多分今回もつぶれるな?と思っていたら予想に反してやってきた。

今年の4月に名古屋赴任、夏に一度戻って来たが、その後は忙しい日々が続いている。
眠る間がないが口癖になっているくらいだ。毎日2時3時の帰宅らしい。
これではお嫁さんをもらっても逃げて行く。

12時になってお昼を作ったが起きない、1、2、3、、、、4時・・・何時間寝たのかな?
ついに起きてきて、
「家は良く眠れるね~、朝、暖房のない部屋に戻ってきて寒くないんだから快適、快適!」と言う。

彼は4月から住宅メーカーに勤めている。
今住んでいるこの家なら良さを十分に知っているから嘘をつかずに自信を持ってお客さんに薦められる、と就職先にスウェーデンハウスを選んだ。

「全然気がつかなかったけど、いつ帰ってきたの?」
「朝、昨日の夜はみんなで集まってしゃべっていた」
そうか、恒例のパターンだ。

スペインから日本に帰国したときだって変わらない。名古屋でもスペインでも同じだ。
帰ってくれば友だち、友だち。

取っておいたおばあちゃんお手製のいくらのお醤油漬けで、朝ごはんかお昼かもしかしたら夕飯?をお腹一杯食べてお風呂に入って又友達に会いに出て行った。

12時過ぎに戻って来て、ハーブティ飲みながらKzさんと少しおしゃべりして、翌朝もぐっすり眠って、「ああ、眠り足りない~」と言いながら、前の夜にたっぷり作ったロールキャベツを
「これから友だちとランチ食うから、一個でいいよ」と言いながら、「やっぱり旨い、もうひとつ・・・」
と結局3個食べて名古屋へ戻って行った。
「あっ、冬物出しておいたから送っておいて!」って。
私は何だ?

多分眠りに帰って来たのだろう。
何か平和なほのぼのとした時間だった。

二人のおしゃべりも止まらない。

2010年11月2日火曜日

一年目、秋の軽井沢とツルヤ


紅葉の季節だ。

18号線を軽井沢方面から古宿辺りで右に入ると我が家に通じる。

入って直ぐに、唐松の黄金の絨毯に出くわす。道路が落ち葉で埋まっている。
これが優しい色で、私の大好きな軽井沢カラーだ。

車がやっとすれ違える位の細い道路だが、両側から鮮やかな秋色が出迎えてくれた。
真っ赤なドウダンツツジ、燃えている。東京ではこんな色にならない。紅葉も赤や黄色に気持ちよく変色している。私には区別のできない様々の広葉樹が競ってファッションショーをしている。

一瞬のうちに一面の別世界だ。

先月kzさんが新しく買った草刈機でグイーングイーンと頑張って草刈をした跡は、意外にも惨めなほどには雑草に侵食されていず、ひどかった腰痛や様々な筋肉痛も報われた感じがする。
夏ここにやって来る度に、「えー!!あんなに草取りしたのにぃ~~!!」
と、これでもか、これでもかと伸び放題の雑草たちだったが、草刈機のせいか、はたまた季節のせいか?きちんと歩くことができる状態を保っている。good!

我が家は森の中の偶然にもパッと開けた場所にある。小さなこじんまりした家だが快適な別世界に私を運んでくれる。
スナフキンがちょっこし立ち寄ってくれたら最高だ。

車で7~8分の所にツルヤという長野県では有名な大型のスーパーがある。
軽井沢のツルヤは特別で、非の打ちどころのないスーパーなのだ。
いつ行っても大きな駐車場は車で一杯。
季節ではなくても一杯! サクラの車ではないかと疑うほどの車の数だ。
観光客のコースにでもなっているのだろうか?

多分軽井沢ではオフシーズンがなくなってきているのだろう。

このツルヤが何故優れモノかと言うと、品揃えの豊富さ、新鮮さ、回転のよさ、質の良さ、、、しかも安い。
つまり、安くて良い品の宝庫なのだ。
直ぐに売れて、常に品物を補充しているから、古いものなどない。
信州だから野菜は美味しいし、紀ノ国屋の半値で買えるものがたくさんある。
しかもみかけは少し不細工かもしれないが、味は引けをとらない。

今日は丸一日フリータイム。
忙しさに明け暮れていた私は、家事から解放されて、好きなだけ文章が書ける。本が読める。
わーーい!!!
これもオババのドタキャンのおかげだ。

忙しくて眠る間もない息子や娘、朝からお仕事のKzさん、申し訳ない!
たまにはいいよね?

2010年11月1日月曜日

えっ! 又? 〜認知症と鬱の兆候

又、オババにやられたー!

私はこの人の娘をして何十年になるのだろう?
又この繰り返し。 実の母親とは言え、こんなに我がままで自分勝手な人は見たことがない。

母が東京へ来なくなってから何年になるのだろう?
ざっと8年位は経っているかもしれない。結構頻繁に、来ては多量に買い物をして帰って行った。
それが、購買意欲の低下とともに来なくなった。
東京へ来ても私とけんかするだけだし、欲しいものもないし・・・と。
多分80歳を過ぎてからは一度も来ていない。

毎回、毎回誘って迎えにまで行っても、「やはりやめた!」で終わる。
まるでそのパターンが彼女の癖になってしまったみたいだ。

鬱の傾向がかなり出てきて、しかも認知症のアリセプトという薬も受付けない。そうこうしているうちに、同じことばかり言うようになり、しかも内容は弱気な愚痴ばかりで「死にたい、死にたい」が口癖になってきた。
娘としてはやはり聞き流してはおられず、何か自分にできることがないだとうか?とどうしても考えてしまう。朝それを考えながら目が覚める時があるもの。

そして、『丁度紅葉のきれいな季節なので、軽井沢へ行こう!
そしてオババを長野まで迎えに行き、病院に付き合ったその足で軽井沢まで連れてこよう!
音波のお風呂にも入れるから、調整してあげれば多少は気が晴れるかもしれない。
帰りは長野へ送って、その足で東京へ戻ればよい。』
そう思って、駄目元でオババに声をかけた。

珍しく、本当に珍しく、
「そうだねえ、行ってみようかねえ。ソラちゃんが迎えにきてくれるなら~」
という返事。 上手く行き過ぎた!!

出発当日の朝、つまりちょっと前、
「やはり、気が進まないから、この話は無しにして欲しい」と電話がかかってきた。
「お母さん、このままじゃうつ病になっちゃうよ。無理してでも一度外へ出てみようよ。きっと紅葉がきれいだよ。Kzさんが連れておいでって言っているから。私がご飯作ってあげられるし、今週は学校無いからのんびりできるよ。」

「どうしても出たくない。来なくていいから」

それで終わり。

こんな時は説得しても駄目なのはわかっているが、どこかで壁を打ち破らないと、餓死した老婆を発見という最悪の悪夢を体験することになる。そんなことになったら、私は一生報われない。

自分が報われないから押し付けるというのとは訳が違う。本当にリミットなんだよ、様子を見ていればいやと言うほど良く分かる。
ちょっとしたきっかけで抜け出せるのに・・・。気分が変わったら、本当に気持ちが軽くなるよ。見えるものが変わる、今ならまだ間に合う、ぎりぎりなんだよ。

私も追い詰められて鬱になったことがあるから、だから分かるんだ。
楽天家で自分のことばかり考えていたお母さんには、あの時の私の気持ちは全然分かってもらえなかったけどね。

まあ、そんな鈍感さも必要かもしれない。
私の敏感さは、あなたには重荷になるのかもしれないから。