2011年5月30日月曜日

ついに、還暦!

2011年5月28日とうとう還暦を迎えた!


仲良しの友人たちはもう何人もそちらの世界に突入しているのでどうってことはないのだが・・・・・
母の頃の60歳というと結構しわなんかできているおばあさん顔をしていて、赤いチャンチャンコがとても似合っていたが、今の女性はみんな若いので、60歳がどうのこうのって特にないような気がしていた。


自分がなるとどうだろう?
「う~~ん!」やはり昨日と変わらない!!



Kzさんが珍しくお祝いをしてくれた。
私が欲しかったジャケットを内緒で買ってきてくれた。ここのところプレゼントとか、お祝いとか縁がなかったので、とても嬉しかった。

そして当日、もう一つのビッグサプライズを下さった!それが、写真のswashのスカーフ。
とてもしなやかできれいな、しかも今年の2011年の年号の入ったスペシャルバージョンだ。

70歳になってもこれが似合うような女性でいてください。と言われた。
『う~~ん、難しい課題だ!!』
「白洲正子だったら似合いそうだね」と答えた私は、そんな風に自由奔放に自分の眼で物が見えしかも行動できるおしゃれな素敵な女性になりたいものだと、心底思った。
ありがとう、Kzさん!!


ところが、それとは別に二個目のプレゼントの瞬間に私は嬉しそうな顔をしなかったのだ。
Kzさんの顔が一瞬曇った。ガッカリしてしまったみたいだ。

それは、スカーフが気に入らなかったのではなく、2日前にいただいた一つ目の黒のジャケットでわたしはすっかり満足し切っていたからで・・・ そこで満たされていたから、それ以上は贅沢に感じられて物欲のない私には十分だったのだ。
ちょうど、美味しいレストランでお食事した後、エスプレッソの後に、とても素敵なショコラが出てきても私のお腹には入らない。それが宝石のように満足の上の満足で嬉しい人もいるのかもしれないが、私には十分で・・・別の機会にとっておきたいような気持ちになるのだった。

その夜は久しぶりにスコルピオーネに行った。
普段着しかなかったので、プレゼントのスカーフで誤魔化した。なかなか素敵だ。
『スコルピオーネ2』のカジュアルな店にはよく行ったものだが、店じまいしてしまったので、もう行けない。オリジナルの方へは随分長いこと行ってなかった。
素敵なお食事だった。
去年からの魔の一年をこれで追い払い、素敵な60代に突入!!!だ~~と思っていた。

ところがその夜、美味しい食事のせいか、、、、胃が疲れていたせいか、体調がまだ戻っていないのに美食をしたせいか・・・そう言えば今週は少しハードだったけれど、、、夜中中吐き気と下痢に悩まされ、朝の5時に7回目の水ばかりのひどい下痢で終止符を迎えた。

60歳前の嫌な事を全部押し出し、流しだし、すっかりピューリファイされたと思おう。 空っぽの自分からスタート! しかし一晩中苦しんで辛かったこと・・・・(涙)。

私には、ほんの小さな幸せが似合っている。
自分の許容量を知り、それに合ったさじ加減で生きていかないと壊れる。
静かに、物にとらわれずに、大切に思うものを大切に生きて行きたい。

今年は、良いこともあるけれど、自分次第で乗り切るのが大変ですよ~~と神様が予告してくださったのかもしれない。

印象的に嬉しかったのは、「おめでとう!」をたくさんの人に言ってもらえたこと。
みんなが私の誕生日を覚えていてくれて、わざわざおめでとうを言ってくれた、息子のKまで言ってくれたから、多分色々なひとに支えられて、この嵐を乗り切ることができるのだろう。

Kzさん、ありがとう!
もっと、もっと幸せを運んできて、みんなを幸せにしてください。
そして自分も幸せになってください。
私も頑張ります。何しろ先に60代突入だもんね。

2011年5月23日月曜日

ケンケンとコン吉



GW中にツルヤで配布されたラベンダーが
我が家の庭に仲間入り!
記念すべき第一号だ。

2週間の留守の間に枯れてしまったのでは?と気が気でなかったが、無事に元気で待っていてくれた。






ラベンダーの一鉢を見て、一人では可哀想!と仲間を仕入れてきた。庭に色が付くと別世界になる。
                                                                                                              

この子たちは、もっと元気になって私たちを迎えてくれた。入り口のネモフィラたちも大丈夫だった。

雑草天国だったが、それも仕方ない!
Kzさんと風のガーデンになるのはいつだろう?と夢見る。



我が家に毎日訪れるものが約2名いる。
野鳥をいれるともっとすごい数になるが、決まってやってくるこの二名のことはちょっと記録しておこう。
東京の家に行けば写真があるのだが・・・

まず、『ケンケン』
ケンケンは雉だ。毎朝「けーん、けーん♫」と騒いでダンスを踊って隣の庭に行く。 どこでもあの声が聞こえるので、多分仲間がいるか、あちこち移動しているに違いない。それがとても綺麗で~、カラフルで堂々としている。
ところがうっかりドアを開けたりすると、びっくりしてかけっこをして逃げていく、二本足で小さくなった駝鳥のような格好でトットット・・・と走るのだ。それが速い、速い。その格好がいかにも愉快で笑ってしまう。飛んだ姿は一度も見たことがない。堂々としていた雉が慌てる様は実に愉快。

もう一名は、『コン吉』
コン吉は名前の通りキツネだ。
私には何キツネかわからないが、もしかするとタヌキ?って顔でもある。

昨日目が合った。
というのも、生ごみを庭の肥料にしようと、穴を掘っていつも埋めて行くのだが、滞在中はまだごみが出るので、軽く土を覆っておくだけにしていた。野生の動物を餌付けをすると大変なので、帰る時にはしっかり土をかけて穴の位置がわからないようにして行くのだが・・・・

どうも夜中にほじくっている奴がいるらしい・・・朝起きるとバナナの皮とかが表面に出ている。
初めはケンケンの仕業と思っていたのだが、どうももっと力のある奴がやっているようなので、コン吉かもしれない、と目安を付けていた。
そして、昨日夕方コン吉がやってきた。土をたくさん被せておいたので、おしっこをして通り過ぎて行ったが、あれは私が遠くから見ている気配を感じて騙したのだと思う。
こちらは、全く慌てず、じっとにらみ返したから、すごい!

埋まっていることに気がつかなかったのではなく、私を誤魔化したのだ。
つまりはしらばっくれ! 見事に騙された。
だって今朝起きたら、又ほじくり返してあった。大根の皮が一つ出ていた。

東京へ帰るときはとことん気をつけよう。熊が来たら大変だ!
猿もいやだ!

ところでここはスウェーデンハウスなので、ドアを閉めてしまうと外の音が全く聞こえない。
ドアを開けると、あまりにも豊富な鳥の声が聞こえてびっくりする。もちろんたくさんの訪問者が来るので窓越しにみているだけでも面白いのだが・・・

少しでも音をたてると直ぐに飛び立ってしまうので、窓越しにしか観察できない。そうでなければずっとベランダでじっとしているしかない。
見えただけでも、カッコウ、うぐいす、雉、きつつき、コゲラ、ひばり、ひよどり、しじゅうから、めじろ、モズ・・・・もちろんすずめもやってくる。

この声を聞き分けられるようになったら、どんなにか素敵だろう。
窓を開けている季節になったら、PCで聞き比べながらやってみよう。

2011年5月17日火曜日

弱音を吐こう介護日誌⑪ 〜恐怖の火曜日と土曜日の夕方

オババの入浴日が水曜日と日曜日だ。
前日の夕方になるとスタッフの人が、着替えを取りにやって来る。

するとオババから必ず家に電話が来る。
「明日お風呂だからって着替えを持って行くというので断った」
「物がなくなるから、お風呂には入らない」
「具合が悪くてお風呂どころではない」
それを私に訴えるのだ。

私は困ってしまう。
どうもスタッフの人とひと悶着あるようだ。泥棒呼ばわりしているに違いない。
多分上手に対応してくれているのだろうが、あまりにも頻繁なので実に厄介で根深い。

オババかどうして電話をよこすのかいまひとつよく分からない。
スタッフの人とけんかした罪悪感からか、本当に物を取られると信じ込んでいるからか、それとも本当はお風呂にはいりたくないからか?
最初の理由であって欲しいけれど、可能性は薄いかも。

否定してはいけないと物の本には書いてあるので、
「お風呂は週2回しかないのだから、入っておかないと駄目だよ、気持ちいいよ」
と答える。色々反論するので
「何がなくなるの?」と聞くとパンツとかが戻って来ないと言う。
本当は『こんなオババのパンツ取ったってしようがないやろ、誰が持って行くって言うの?』と言いたいところだが我慢して、
「困ったね」と言う。

こうして、私はまたまた憂鬱になるのだ。本当の認知症になっちゃったんだねえ~まるでお手本みたいじゃない。オババしっかりしておくれ!

認知症メモ-自分の時のための準備 ①

アルツハイマー型認知症は遺伝するとも言われているので、気になったことを自分の為に記録しておこうと思います。
早期発見とか、何かの役に立つかもしれません。

母の10歳ほど下の弟も認知症症状が出ているそうです。私は母とは似ている所がないけれど、血液型は同じだし、やはり母親だし・・・そういうわけで色々書きとめておこうと思います。

経過:

母は昔からものぐさでいい加減で、面倒なことが大嫌いで、ずぼらで・・・・兄とよく、「初めから呆けているから、この人は呆けてもあまり変わらないだろうね。多分呆けないよ」と言っていました。
私のような几帳面で完璧主義の人間は呆けると言われていたので、私は性格を変えようと心の大きなおおらかな友人達を見習って大変努力をしていました。
その努力の甲斐があって、最近は小さなことにくよくよしなくなったし、神経質さも薄れてきたし・・・と認知症対策が進行しつつあります。
しかし、何が起きるか分かりません。

『そんな母が何故認知症になったか?』
1.アルミの鍋と味の素と安定剤
全く根拠がないが、昔から風評というか、よく耳にしていた上記の3点は確かに母はあてはまります。
台所にはアルミの鍋ばかり。
長年の習慣で何にも味の素を少しだけかけて食べる。特に信州人の好きな漬け物には必ずかけていました。
いくら「呆けるから飲まない方がいいよ」と言っても安定剤をやめてくれませんでした。

2.依存度の強さ
父が優しい器用な人でしたので、母は困ったことがあると(もちろんなくても)何でも父にやってもらっていました。
母は父の会社の経理をしていたので、今で言うキャリアウーマンの走り・・・会社の副会長とかもやっていた(まあ名目だけですが・・・)珍しい大正生まれなので、全く何もしないわけではないのですが、言われたことをやることはできますが、自分で工夫しない、面倒なことは大嫌い、要するに電球一つすら換えることができませんでした。
父はそんな母の為に得意分野の仕事を与え、厚生年金を得ることができ、自活できるに十分な準備をして亡くなりました。

『困った時は人に頼めばいい』と、何でも人にやってもらっていた母は、父が亡くなった後から、本当の試練の時がきました。けれど、その頃は回りに助けてくれる人がたくさんいたので、どうにかなっていました。
『同居は嫌、一人で暮らす』と宣言して頑張りました。
しかし、自分で筋道をたてて考え、自分で解決する、この過程に慣れていなかった母には、色々な認知症へのマイナス点がありました。

3.度重なる不運

(1)兄の会社が倒産
父が築きあげてき、兄が継いだ会社が多額な負債を抱えて倒産しました。母はその過程で、全てをものすごい速さで失って行く様を見ました。
この心の傷はとても大きく、認知症への第一歩の事件になったと思います。

(2)兄の家族が東京へ ・・・一人ぼっちに
近くに住んでいた兄の一家が大きな家も失い、もちろん会社も失い、東京へ来ました。
母の近くで声をかけてくれる人がいなくなりました。
このとき母も一緒に東京へ出ればまだ若かったのでいくらでも方法がありましたが、彼女の拒絶は強く、「今なら東京の生活に慣れて、楽しくやっていけるよ。歳をとってしまったら難しいから・・・」
と伝えましたが、どうしても動きませんでした。
東京へはしばしば遊びに来ていましたが、次第に意欲がなくなり来なくなってきました。
お正月に来なくなった辺から、彼女のお篭りが始まったような気がします。
話していても、変なことばかり言うので、よく私がイライラして、それを母が感じて癇癪を起こしてけんかになったように記憶しています。
この頃から少しずつ始まっていたのでしょうか。

ここからは、2年ほど前の出来事です。

(3)プールの出入りを断られたこと
父が亡くなってから、20年以上も続けていた水泳教室、後半の10年位はクラスに入らずに、自由会員になって泳いでいましたが、止める2年位前から泳ぎは止めて温泉のお風呂にだけ入りに行って、生活のリズムを作っていました。
「お母さん、何があってもプールへ行くのを日課にするんだよ」そのリズムが大切なことが分かっている私は、そう母に言い聞かせ、母もそれだけは聞いてよくやっていました。カートを押して歩いてプールまで行って、お風呂に入って、帰りにお買い物をして帰ってくる・・・

ある日、プールの経営者から電話が来て、「他の会員の方から苦情が出ているので、退会していただけないだろうか?」というものだった。母が尿漏れパッドをしていたことが原因だったらしい。

この事件のショックは、見事に母を襲いました。
母が目に見えておかしくなって行ったのはこの辺りからです。
それでも、普通に生活していたし、人に迷惑をかけたりすることはなかったと思います。
認知症という名前をつけられるところまでは行っていなかったでしょう。

(4)親しい人が亡くなったこと
近所の女性で、私より4歳ほど年上の方が、とても母を気にかけてくださり、毎日声をかけて時々食べ物を運んでくださったりしていました。介護保険の手続きも彼女がしてくれたお陰でできました。
彼女がいるので、ペットボトルの蓋を開けられない等の、困った時には、やってもらっていたので、安心していました。母も彼女には心を開き、感謝もしていました。
娘より好きだと言っていましたから・・・

けれど、その人が10ヶ月ほど家に篭ってしまいました。プツリと訪問が途絶え、姿を見せなくなってしまったのです。もともと躁鬱の激しい波があり、数年単位で入退院を繰り返していたのですが、ここ数年は元気でした。
母はとても心配して、おろおろしましたが、どうにもならず・・・しかし、ある朝数ヶ月ぶりに、突然母に挨拶に来て、その数日後に亡くなってしまいました。

この事件の後から、月1万円は出ていた母の電話代が基本料金以上になることがなくなりました。
気丈な母でしたが、この事件の傷は、病気としての認知症の一歩になったと思います。

この続きは次回に

2011年5月14日土曜日

オババ家に来る!

調度金曜日の授業が休講になったので、オババを家に連れてくる計画をたてた。
ホームに入ってから初めての訪問だ。

GW中、3日連続で私が行かなかった後の不安定な後遺症がやっと癒えてきたので、そろそろ新しい刺激を与えてみようと思った。

珍しく、「1時過ぎに迎えに行くから~」をいう台詞を覚えていて、と言ってもカレンダー二箇所に書いて、メモも大きな文字で残し、更に事務所にまで連絡しておいたから・・・、「これから迎えに行くよ」と電話した時にも驚いたような様子はなかった。
ホーム長さんが「朝から楽しみにしていらっしゃいましたよ」とおっしゃったので、
「へぇ~、覚えていましたか!」と私は感心して確認してしまいました。
良かった!

部屋に行くと、着る物が決まらずパニック状態。あれこれ引っ張り出して色々試して、先日東急で買ったカーディガンに決定!まるで泥棒が荒らしていった部屋みたいだ!
「こんな部屋人に見せられない」と言うので、片付けさせられた。相変わらず人使いが荒いオババ。私はいつも下女だ・・・しくしく
呆けていてもオババのセンスはなかなかだ!!下に着るブラウスと帽子を選んであげて、まあ小奇麗なオババになった。 (たまには朝顔を洗って、おしゃれもしてよ!どう、気持ちいいでしょ?)

車で10分くらいかな? 家に到着。
初めて見る家らしい。「何も覚えていない」と言っていた。
玄関も、いつも泊まっていたお部屋も、トイレも、居間も・・・・何も記憶にないらしい。
「ソラちゃん綺麗なお家に住んでいたんだね」と安心したらしい。(今まで何度来たのか分からんのに)

お茶して、庭に咲いたバラを切ってあげて、ホームに送り届けた。
「私はこれから何処へ帰るのだったかしら?」とさかんに言っていた。

ダイニングからちらほら見えるお隣の家のお庭をぼんやり見ながら、
「あそこにお年寄りがいたよね?もう死んじゃったかしら?」とボソッと呟いた。
「えっ?覚えているの?」ビックリして聞き返した。
「そんな気がしただけ・・・」
それだけがオババがここに来たことがあった証拠になった。記憶の断片がうっすらとまだ存在していたのか、偶然だったのか・・・?

「今何時?」
「もうすぐ5時になるかな」と答えると、
「あらもう、夕飯の時間だわ。急がなくちゃ」とお土産の靴下とお菓子とバラの花と花柄のトイレットペーパーを持って満足そうに帰って行った姿は悪くなかった。
食い気だけは救いだ!

少しでも幸せな記憶が戻ってくるといいね、おばあさん。

2011年5月11日水曜日

弱音を吐こう介護日誌⑩ 〜オババランチ

毎週水曜日はオババランチの日だ。
ホームへ行って、一緒にお昼をいただく。

いつの間にかオババはお食事を一緒にする人ができたようだ。
四人のグループで、オープンした初日から入っている古株の人々のグループだ。居住者の中でも極めて正常でしっかりしている3人の女性達だ。

そのうちの一人の方が、「今日は娘さんの来る日でしょ?場所を用意しておいたから一緒にいらっしゃい!」と迎えに来てくださった。何だか私もホームの顔になってきたのだろうか?
まあ、歓迎されないよりはいいかもしれないが・・・

一人の感じよい92歳のササオカさんは、以前ぬり絵でご一緒している。
母のことを面白いと快く思ってくださっているみたいで、母も彼女のところは好きなようだ。
何故なら「ともだち」と呼んでいるから。

もう一人のどこに居ても大きな話し声が聞こえるミウラさんは、頭もしっかりしているけれど、口も達者で、少し若い。大正15年生まれと言っていたから、85歳位だろうか?
オババはいい加減に聞いているので苦にならないが、いつも聞いている人は結構大変そうだ。けれど記憶もしっかりしているし、周りのことを全て把握している情報通で、話を聞いていると面白い。
もっともオババはそういうことに興味ないのであまり役にたたないのかもしれないが・・・
いずれにせよ、良いグループにいれていただいている。

3人目のヒグチさんはまだまだ若い大人しそうな控えめな感じの方で、今日はご自分の家に行かれていて留守だったので、私が代わりに座席に付くことができた。

オババはさばさばしたミウラさんに結構きついことを言われているのだが、何を言われてもあまり理解できなくて、気にしていないようなので、まあいいか!って感じだ。こういう時は悪意がなくて呆けているのもなかなか良いものだ。昔のオババなら癇癪を起こしているところだもの。
ササオカさんはオババより高齢なのにしっかりしていて言っていることが理解できるから、あまり何度もきついことを聞いていると頭が痛くなってしまうらしい。

情報通のミウラさんの入居者に関する情報は私の観察とほぼ一致していて・・・、けれどそんなにしっかりしたミウラさんでも足が少し悪いので、杖が必要なため一人の外出は許されていないらしい。入居者のなかでは3人しか一人で外出ができないと言っていた。そして内訳も私にはピッタリと分かった。
そんなだからオババには一人で外出などとても無理なのだが、瞬間しか分からない彼女はそれが不満で私に文句ばかりなのだ。私もいちいち気にせずに賢くならねば・・・

オババの認知症は少し進んでしまっている。来週から新しい薬の量が増える。
少しでも効果がでてくれると良いけれど、今思うと随分前から認知症は少しずつ少しずつ進行していっていたのだと思う。今回は2カ月で急激に悪化したのではあるけれど、実は何年もかかって今に至っているのだと思う。

それがよく分かった。 長い目で見ていかねばならない。