2011年5月17日火曜日

認知症メモ-自分の時のための準備 ①

アルツハイマー型認知症は遺伝するとも言われているので、気になったことを自分の為に記録しておこうと思います。
早期発見とか、何かの役に立つかもしれません。

母の10歳ほど下の弟も認知症症状が出ているそうです。私は母とは似ている所がないけれど、血液型は同じだし、やはり母親だし・・・そういうわけで色々書きとめておこうと思います。

経過:

母は昔からものぐさでいい加減で、面倒なことが大嫌いで、ずぼらで・・・・兄とよく、「初めから呆けているから、この人は呆けてもあまり変わらないだろうね。多分呆けないよ」と言っていました。
私のような几帳面で完璧主義の人間は呆けると言われていたので、私は性格を変えようと心の大きなおおらかな友人達を見習って大変努力をしていました。
その努力の甲斐があって、最近は小さなことにくよくよしなくなったし、神経質さも薄れてきたし・・・と認知症対策が進行しつつあります。
しかし、何が起きるか分かりません。

『そんな母が何故認知症になったか?』
1.アルミの鍋と味の素と安定剤
全く根拠がないが、昔から風評というか、よく耳にしていた上記の3点は確かに母はあてはまります。
台所にはアルミの鍋ばかり。
長年の習慣で何にも味の素を少しだけかけて食べる。特に信州人の好きな漬け物には必ずかけていました。
いくら「呆けるから飲まない方がいいよ」と言っても安定剤をやめてくれませんでした。

2.依存度の強さ
父が優しい器用な人でしたので、母は困ったことがあると(もちろんなくても)何でも父にやってもらっていました。
母は父の会社の経理をしていたので、今で言うキャリアウーマンの走り・・・会社の副会長とかもやっていた(まあ名目だけですが・・・)珍しい大正生まれなので、全く何もしないわけではないのですが、言われたことをやることはできますが、自分で工夫しない、面倒なことは大嫌い、要するに電球一つすら換えることができませんでした。
父はそんな母の為に得意分野の仕事を与え、厚生年金を得ることができ、自活できるに十分な準備をして亡くなりました。

『困った時は人に頼めばいい』と、何でも人にやってもらっていた母は、父が亡くなった後から、本当の試練の時がきました。けれど、その頃は回りに助けてくれる人がたくさんいたので、どうにかなっていました。
『同居は嫌、一人で暮らす』と宣言して頑張りました。
しかし、自分で筋道をたてて考え、自分で解決する、この過程に慣れていなかった母には、色々な認知症へのマイナス点がありました。

3.度重なる不運

(1)兄の会社が倒産
父が築きあげてき、兄が継いだ会社が多額な負債を抱えて倒産しました。母はその過程で、全てをものすごい速さで失って行く様を見ました。
この心の傷はとても大きく、認知症への第一歩の事件になったと思います。

(2)兄の家族が東京へ ・・・一人ぼっちに
近くに住んでいた兄の一家が大きな家も失い、もちろん会社も失い、東京へ来ました。
母の近くで声をかけてくれる人がいなくなりました。
このとき母も一緒に東京へ出ればまだ若かったのでいくらでも方法がありましたが、彼女の拒絶は強く、「今なら東京の生活に慣れて、楽しくやっていけるよ。歳をとってしまったら難しいから・・・」
と伝えましたが、どうしても動きませんでした。
東京へはしばしば遊びに来ていましたが、次第に意欲がなくなり来なくなってきました。
お正月に来なくなった辺から、彼女のお篭りが始まったような気がします。
話していても、変なことばかり言うので、よく私がイライラして、それを母が感じて癇癪を起こしてけんかになったように記憶しています。
この頃から少しずつ始まっていたのでしょうか。

ここからは、2年ほど前の出来事です。

(3)プールの出入りを断られたこと
父が亡くなってから、20年以上も続けていた水泳教室、後半の10年位はクラスに入らずに、自由会員になって泳いでいましたが、止める2年位前から泳ぎは止めて温泉のお風呂にだけ入りに行って、生活のリズムを作っていました。
「お母さん、何があってもプールへ行くのを日課にするんだよ」そのリズムが大切なことが分かっている私は、そう母に言い聞かせ、母もそれだけは聞いてよくやっていました。カートを押して歩いてプールまで行って、お風呂に入って、帰りにお買い物をして帰ってくる・・・

ある日、プールの経営者から電話が来て、「他の会員の方から苦情が出ているので、退会していただけないだろうか?」というものだった。母が尿漏れパッドをしていたことが原因だったらしい。

この事件のショックは、見事に母を襲いました。
母が目に見えておかしくなって行ったのはこの辺りからです。
それでも、普通に生活していたし、人に迷惑をかけたりすることはなかったと思います。
認知症という名前をつけられるところまでは行っていなかったでしょう。

(4)親しい人が亡くなったこと
近所の女性で、私より4歳ほど年上の方が、とても母を気にかけてくださり、毎日声をかけて時々食べ物を運んでくださったりしていました。介護保険の手続きも彼女がしてくれたお陰でできました。
彼女がいるので、ペットボトルの蓋を開けられない等の、困った時には、やってもらっていたので、安心していました。母も彼女には心を開き、感謝もしていました。
娘より好きだと言っていましたから・・・

けれど、その人が10ヶ月ほど家に篭ってしまいました。プツリと訪問が途絶え、姿を見せなくなってしまったのです。もともと躁鬱の激しい波があり、数年単位で入退院を繰り返していたのですが、ここ数年は元気でした。
母はとても心配して、おろおろしましたが、どうにもならず・・・しかし、ある朝数ヶ月ぶりに、突然母に挨拶に来て、その数日後に亡くなってしまいました。

この事件の後から、月1万円は出ていた母の電話代が基本料金以上になることがなくなりました。
気丈な母でしたが、この事件の傷は、病気としての認知症の一歩になったと思います。

この続きは次回に

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