2012年7月25日水曜日

老いを生きる意味 浜田晋

精神科の診療室から
                  岩波現代文庫

Kzさんの本棚にあった本なのだが読み始めたら面白くて夢中になってしまった。

できればおばあさんはこんな先生の近くに居れたら良かったと思う。

先日NHKのプロフェッショナルで老人介護福祉士の和田行男さんの取り組み方を観て、すごいなあ〜と感心した。認知症の老人をあくまでも普通の人として接するために弛まない努力を続けているのだ。でも私にはとてもできないと思った。力が入り過ぎている。
実際に母の面倒を看て来て、あんなに一生懸命やったら自分がへたばってしまうと思った。

この浜田先生は、大きな病院の精神科から始まって色々感じ、最終的に自分のクリニックを開き、町の医者になった。この先生のやっていることと自分の姿勢が偉大さは全く異なるが力の抜き具合が似ていると思った。

丸ごと受け入れる、無理をし過ぎない、強要しない。

アメリカの老人ホームで、月一でラマ(マチュピデュなんかにいる平和なお顔の優しい動物)が訪れる。ラマは大人しくて匂いがないので老人たちの人気者だ。みんなラマを一番喜ぶらしい。口をきかないでじっとしているだけなのに。
みんなが飛びつく程好かれているという。

しかし驚くのは、ホームから戻ったラマである。くたびれ果てて、2〜3日はぐったり横になって、食事もとらないらしい。

自分と重なって笑ってしまった。
生気が吸い取られてしまうのだ。だからとても疲れる。老人に快くサービスするのは大変だ。老人はわざとやるとすぐに見抜いてしまうから、あくまでも自然体でないといけない。それをキープするには回復にかかる時間を見積もっておかないと自分がへたばる。

今日も見事、負のエネルギーが一杯でぐったり戻った。

機嫌良く、丸ごと受け入れて、ひたすらともにいること。
わたしもラマになりたい〜

一つ印象的な引用を:

人は人である以上病むことからのがれられない。そして苦しむ。ひたすら一人で耐え忍ぶ。しかしである。
病は一方で、人間が人間である深い苦悩の中から、英知を「人間」にさとらせることがある。病むことなしには人は自らの「本質」にさえ気づかない。自らの中にあるいくばくかの「病める心」に気づき、かかえこむことなしに人は人でありえないのではないだろうか。


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