2012年10月14日日曜日

ひいおばあさんの話

今日はこれから、オババを囲んでのお食事会だ。
個室でないと文句を言うので、場所は吉祥寺の聘珍楼と決まっている。

思ったより寒いので、久しぶりの外出のオババには準備してきた洋服が薄手かもしれないと、迎えに行ってくれる義姉に他の候補をメールで連絡していた時、フッとオババの顔が浮かび、それが私のひいおばあさんであるしわくちゃで異様に小柄な長谷のばやん(おばあちゃん)の顔に重なった。*ちなみに母の田舎では、おばあさんはばやん、もちろんじやん(おじいさん)とやん(父)かやん(母)ねやん(姉)あんやん(兄)と呼ぶ。


私は以前にもどこかで書いたかもしれないが、母方の母の家(『長谷の家』と呼んでいる)の血を多分に引いている。しかし私の母方のおばあさんはオババを産んですぐに(オババ三歳の時)腎臓を痛めて亡くなってしまったので、写真しか知らない。
このおばあさんは葉萬枝さんと言って、おじいちゃんも母の叔父や叔母も声をそろえて、「ソラちゃんは葉萬枝さんにそっくりだね」と言う。
私は外では自分と似た人と会ったことがない。

私は子供の頃から真っ白で金髪だったので(日本人です、今は茶髪になりました)いつも「外人、外人!」といじめられて育ったのだが、この長谷の家に行くと私のように色白で髪の赤い人々がたくさん居るので、なんだかホッとしたものだ。そして、自分はここの血を引いた人間なのだとつくづく思うのだった。

母(オババ)は三歳で母親を亡くしているので、私のひいおばあさんである長谷のばやんは、母のことをとても気にかけていて、「母親がいないのは不憫だ」と自分の娘のように可愛がって育てられたらしい。葉萬枝さんは長女だったので、実際、当時は子だくさんだったから、ばやんの一番末の娘と長女の娘であるオババは歳の差がなく、一緒に姉妹のように育ててもらったらしい。

結局おじいさんは後妻さんをもらったので、その後はあまり口出ししなくなったけれど、だれかが母をいじめると旧家で権力のある長谷のばやんが容赦せずに命がけでオババをかばってくれたらしい。オババは疑問なく、自分をお姫様だと思っていたのだと思う。

そして、母もことがあると、直ぐに長谷の家まで泣きながらすっ飛んで行ったという。

このひいおばあちゃん、実にすごい人で、私は母はこのおばあさんに一番似ているのだと思う。90歳を過ぎて外見も似てきたが、特に気が強いところがそっくりだ。
もっともばやんの方がしっかり者で、気前が良く働き者で、正義感が強くて、母のように手抜きしてはさぼることばかり考えたりはしないけれど・・・。

ばやんは当時の人としては長生きで88歳まで生き大往生だった。


オババが結婚して私たちが産まれた後も時々、腰が90度に曲がって地面に顔がくっつくのではないかと思われるような姿勢で杖をつきながら孫娘である母の所にやってきた。背中には行商のような大きな唐草模様の風呂敷包みを背負い、胸でしばって棒のような細いがに股の脚がスカートの下で踏ん張っていた。(昔、東京ぼん太っていうお笑い系の役者さんがそんなスタイルで売っていたっけ)中には野菜やお米や色々なお土産がどっしり!
あんな小さな身体で、よくまああんな大きな荷物を背負えるものだと、つくづく感心するのだった。

その頃のばやんはもうしわくちゃで、腰は曲がっているし頭はキュッとひっつめて後ろで丸めているし・・・長野の市街地に住む私には、まだ小学校にも行かない子供ながらもとてもド田舎のみすぼらしい老婆に見えたものでちょっと格好悪く感じたのだった。(どう見ても典型的な漫画のモデルになれそうな、めぞん一刻のおばあさんみたいなイメージ)が、今の私にしてみると完璧な逞しい老人の姿で本当に後光がさして素敵だ。
豪快で正しくて心が広くて勇気があって、怒ると恐いけれど私にはいつもとても優しかった。

母が、若くて家を出てしまった私の娘をことのほか可愛がってくれる姿は、小さい時に母親をなくした自分にかけられた長谷のばやんからの愛情をそのまま彼女にあげているような気がしてならない。

『孤独』を分け合うことができて、その孤独を知っているから、いっぱいいっぱい愛してあげないといけないと思っているのだと思う。

この勇ましいひいおばあちゃんの曾孫娘である私も顔や体格は似ていないが多分に血を引いているような気がしないでもないのだが。

やはり隔世遺伝で行くと、母とばやん、娘のWの路線でつながりとても強力な遺伝子を受け継ぎ、私は早死にした色白で美人で薄幸だった、葉萬枝さんの劣性遺伝子の方をもらったのかも・・・

いずれにせよ長谷の一族は、こんなに気持ちのきれいな人々はいないと思えるほど心の穏やかな優しい家系なので、そちらの遺伝子を引き継ぎたいものだ。(例外が身近にいるけれど)



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